覚え書:「今週の本棚:湯川豊・評 『翻訳教育』=野崎歓・著」、『毎日新聞』2014年04月13日(日)付。
-
-
-
- -
-
-
今週の本棚:湯川豊・評 『翻訳教育』=野崎歓・著
毎日新聞 2014年04月13日 東京朝刊
(河出書房新社・1944円)
◇花を蘇生させ、生命をよみがえらせる術
家を出て松の生い茂った林を抜けると、砂浜とその向うに海がひろがっている。生活のなかでつねに海の気配を感じている少年が、最初に接した翻訳本は、ヘミングウェイの『老人と海』、さらにはカミュの『異邦人』ほかの諸作だった。新潟市に生まれ育った野崎歓氏の、翻訳書との幸福な出会いである。
長じて野崎氏はフランス文学を学び、自ら翻訳家になった。そして翻訳とは何かを、つねに考え続ける。この本は、翻訳のはかり知れない苦心と喜びを語っているのだが、読み進むうちに、翻訳とは何かを考えるのは、とりもなおさず、日本を含む世界の文学や文化を考えることだと気づく。もちろん、野崎氏の思考が読者をそこまで連れていくのだ。
そして私たちが、いまヨーロッパ文化のまっただなかにいると感じるのは、ネルヴァルの『火の娘たち』の翻訳を手がけているという話あたりからである。十九世紀前半に生きたこの詩人・小説家の代表作をいよいよ訳そうとしている著者の心の高ぶりがまず伝わってくる。野崎氏はたしか卒論もネルヴァルで、ネルヴァルへの愛着は早くからあった。ようやく機が熟したのである。
そのネルヴァルは若い頃、ゲーテの『ファウスト』第一部をフランス語に翻訳した。当時の風潮だった、原本から離れてフランス語としての美文をつくることを避け、地道に『ファウスト』の内容をフランス語に移した。そしてゲーテ自身がこの翻訳を読んで高く評価した。
野崎氏はこのエピソードを語りつつ、ゲーテの別の詩を引用していう。「翻訳とはすなわち、しおれた花を蘇生させる救いの水であり、いったんは衰えた生命を『母なる地』以外の場所によみがえらせる術(すべ)なのだ。」
『ファウスト』のことから、話柄が二つの道筋をとる。その一つは、クラシック音楽の方向。まずは「ファウストの劫罰(ごうばつ)」のベルリオーズ。さらには、ワーグナー、マーラーへと続いてゆく。
ワーグナーとマーラーは、『ファウスト』の「永遠に女性的なるもの」が男を非業の運命から救うというテーマを、「タンホイザー」や「交響曲第八番」に鳴り響かせた。十五、六世紀にヨーロッパに流布したファウスト伝説は、そんなふうに文学だけでなく音楽の世界にも強く浸透している。これは一種の「重ね書き」であり、重ね書きとは一つの翻訳ではないか、と野崎氏は主張する。
そして音楽との関連でいえば、再現芸術である演奏こそ、翻訳に近い行為なのだと、サイードと音楽家・バレンボイムの対話を引用しながら示唆している。
話の道筋のもう一つは、『ファウスト』を訳した森鴎外という方向をとる。
鴎外にとって「永遠に女性的なるもの」とは何だったか。『渋江抽斎』の五百(いお)(抽斎の妻)ではなかったかという議論がめっぽう面白い。五百は男性的であるのが魅力だからだ。
さらに『渋江抽斎』を論じて、これは様々な資料や聞き書きをもとにした、精巧無比の「翻訳」ではないかというあたり、この史伝の核心に迫っていて説得力十分。
鴎外の長女・茉莉の息子が、仏文学者の山田〓(ジャク)。野崎氏は東大でジャク先生に教わった。含羞の人で、一風(いっぷう)変わったダンディでもあったジャク先生の風貌が、フローベールの翻訳のみごとさと共に語られる。
豊富なエピソードに書き手が遊んでいるかのよう。それを追っていくと、野崎氏はいつのまにか「翻訳とは何か」を越えて、「文学とは何か」を思考している。楽しくて、しかも恐ろしい本なのである。
−−「今週の本棚:湯川豊・評 『翻訳教育』=野崎歓・著」、『毎日新聞』2014年04月13日(日)付。
-
-
-
- -
-
-
http://mainichi.jp/shimen/news/m20140413ddm015070025000c.html