覚え書:「書評:鐘の渡り 古井 由吉 著」、『東京新聞』2014年04月20日(日)付。

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鐘の渡り 古井 由吉 著 

2014年4月20日

◆日常の切れ目に覗く永劫
[評者]佐藤美奈子=フリー編集者
 古井由吉は、小説が可能にする表現の領域を深めつつ、私たちの「いま」を照らし続けている作家である。
 古井作品の言葉が確かにしているのは、日常のなかに覗(のぞ)く危機や窮地の局面を、意識もせず行き過ぎることを余儀なくされた在り方こそ、私たちの「いま」だという感触である。
 最新の連作八篇を収めた本書でも、私たちの意識や知覚の外にある危機や窮地、狂気に至る寸前の感覚が文章自体の運動によって呼び出されている。
 『地蔵丸』では、ありったけの子供の泣き声が日常に切れ目を入れ、永劫(えいごう)の面相をひろげる。それにつれ、窮地であった空襲時の「私」の記憶が呼び覚まされ、「気が振れる」人の姿や自身にはぐれた自己像が鮮明になる。
 表題作『鐘の渡り』は、三十路(みそじ)男の篠原が、友人朝倉に誘われ、晩秋の山に旅に出る。一緒に暮らした女を亡くしたばかりの朝倉と泊まった宿で、夜半に聴いた鐘の音が、篠原の耳を離れない。山を降り、女の部屋を訪れた篠原は、熱を出して寝込むことになる。死とエロスの両方と隣り合い、危うい境に接した篠原が聴く鐘の音は、古今のあまたの男女が通り過ぎてきた光景を現出させ、個を超えた因縁の世界の在りかを告げるかのようだ。
 現に居ながら不在と感じる自身よりも、死者である友人のほうに存在感があることを描く『明日の空』も、「自身の奥底に遺(のこ)る幼少の頃の嗅覚」に依拠しないと「生きていても死んでいるようなもの」だとする『窓の内』も、実は私たちがそこに立つもう一つの現実の所在を明らかにしている。
 過去の古井作品が蔵した時空間とも響き合い、それらを内に幾重にもたたみ込んだ文章のうねりは、随想と物語を混然一体とさせた形となって、言葉が遺す痕跡を一層独自にしている。本書が描く静かで、しかも切迫した瞬間に触れることで、日常の底が比類もなく豊かで恐ろしい永劫と通じているさまを、読者は体験するのである。
(新潮社・1728円)
 ふるい・よしきち 1937年生まれ。小説家。著書『栖』『白髪の唄』など。
◆もう1冊
 古井由吉佐伯一麦著『往復書簡 言葉の兆し』(朝日新聞出版)。存在の揺らぎを探る二人の作家が大震災を機に言葉の再生を語る。 
    −−「書評:鐘の渡り 古井 由吉 著」、『東京新聞』2014年04月20日(日)付。

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