覚え書:言説としての差別放置識人

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差別放置知識人
 ヘイト・スピーチ規制の必要性が指摘される中、憲法学の多数説は「表現の自由だからヘイト・スピーチを処罰できない」としています。
 たとえば、長谷部恭男(東京大学教授)の『憲法・第五版』(新世社、2011年)は、表現の自由の優越的地位の根拠として、民主的政治過程の維持と個人の自立を検討した上で、合憲性の判断基準として過度の広汎性の法理、漠然性のゆえに無効の法理に言及した後、内容に基づく規制と内容中立規制に関連して、煽動と差別的言論について検討しています。長谷部は差別煽動について次のように述べます。
 「せん動が表現活動としての性質を持つことにかんがみると、『重大犯罪を引き起こす可能性のある』行為一般を広く処罰の対象とすることは、過度に広汎な規制となる疑いがある。……(中略)……ブランデンバーグ原則によれば、違法行為の唱導が処罰されうるのは、それがただちに違法行為を引き起こそうとするものであり、かつそのような結果が生ずる蓋然性がある場合に限られる。せん動が処罰の対象となるのは、犯罪行為を実行する決意を助長させただけではなく、せん動が行われた具体的状況において、重大な危害が生ずる差し迫った危険が存在したことを政府が立証した場合に限られるべきであろう」(同書201頁)。
 長谷部は積極的に差別を容認しているわけではなく、差別煽動を絶対処罰できないとしているわけでもありません。長谷部が述べているのは、アメリ憲法判例理論に学んで、表現の自由と煽動処罰に関する一般理解はこうであるということだけです。そこにオリジナリティはありません。
 多くの教科書が長谷部と同様の記述をしており、この憲法学多数説を意識して、在特会は、表現の自由を呼号し、差別煽動処分規定のあいまいさを強調していることも明白な事実です。憲法学と在特会のコラボレーションが成立しているのです。
 憲法学だけではありません。赤木智弘フリーライター)は「彼らの言葉はどんなに汚くても「言論」である。ヘイト・スピーチを法律で禁じようという議論もあるが、言論に法規制はなじまない。ヘイト・スピーチを「国籍や性別などの固有の属性に基づく差別」などと法で厳密に定義すれば、反対派による暴言は『定義に外れる』として許容されかねない。一方、定義をあいまいにしておけば、国家による表現の自由への際限ない介入を許す」と述べています(「毎日新聞」2013年6月19日)。
 天宮処凛(作家)は「彼らに掛ける言葉はない。右翼だったころの自分も『やめろ』と言われても行き場がなく『死ね』と言われるに等しかった。広い視野で社会を見てほしいと思う。私は左翼と憲法を討論することになって初めて日本国憲法をきちんと読んだ。反対側を見ればわかることもあるはずだ。法規制には慎重な立場だ。活動を顕在化させるだけで、根本的な解決にはつながらいのではないか」と言います(「毎日新聞」2013年6月27日)。
 さらに、山田健太専修大学教授)は「日本は戦時中の思想・表現弾圧の歴史を経て、制裁無き表現の自由憲法で保障している珍しい国。ナチスの歴史から人種差別思想を禁止している欧州的な感上げを突然導入にて法律を作るのは、日本に合わない。メディアの規範力によって守られてきた日本的な表現の自由の中で、差別的な表現をどう社会からなくすかを考えるべきだろう」と言います(「毎日新聞」2013年7月六日(ママ))。




日本国憲法に基づいた処罰

 ヘイト・スピーチ処罰の世界的動向を紹介してきました。それでも一部の法律家やジャーナリストは「表現の自由が大切だからヘイト・スピーチ処罰をしてはならない」と強弁します。表現の自由の意味を理解していないからです。
 第一に、日本国憲法二一条は「一切の表現の自由」を保障しているという理解です。日本国憲法第二一条一項は「集会、結社及び言論その他一切の表現の自由は、これを保障する」としています。「その他一切」とは、集会、結社及び言論、表現と並列して記されているもので、表現手段の差異を問わないという趣旨です。何でもありの無責任な表現の自由を保障する趣旨ではありません。そのような解釈は憲法第一一条と第九七条を無視するものです。
 第二に、歴史的教訓です。国際人権法や欧州の立法は、二つの歴史的経験に学んでいます。一つは、ファシズム表現の自由を抑圧して、戦争と差別をもたらしたことことです。もう一つは、ナチス・ドイツユダヤ人迫害のように、表現の自由を濫用して戦争と差別がもたされたことです。両方を反省しているから、国際自由権規約第一九条は表現の自由を規定し、同二〇条が戦争宣伝と差別の唱道を禁止しているのです。日本では、前者ばかり強調し、後者の反省を踏まえようとしません。
 第三に、表現の自由の理論的根拠です。一般に表現の自由は、人格権と民主主義を根拠とされます。それでは新大久保に大勢で押し掛けて「朝鮮人を叩き殺せ」と叫ぶことは、誰の、いかなる人格権に由来するのでしょうか。日本国憲法第一三条は人格権の規定と理解されています。第一三条を否定するような殺人煽動を保障することが憲法第二一条の要請と考えるのは矛盾しています。第二一条よりも第一三条が優先するべきです。民主主義についても同じです。「朝鮮人を叩き出せ」と追放や迫害の主張をすることは、欧州では人道に対する罪の文脈で語られる犯罪です。これこそ民主主義に対する挑戦です。
 第四に、法の下の平等を規定する憲法一四条を無視してはなりません。「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とする第一四条は、日本国籍者だけではなく、日本社会構成員に適用される非差別の法理です。第一四条が第二一条より優先することも言うまでもありません。
 日本国憲法は、人格権、民主主義、法の下の平等表現の自由を保障していますが、その具体的内容はそれらの合理的バランスの下に保障する趣旨です。人格権、民主主義、法の下の平等を全否定する「差別表現の自由」が保障されるはずもないのです。
    −−前田朗「ヘイト・スピーチ処罰は世界の常識」、前田朗編『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか 差別、暴力、脅迫、迫害』三一書房、2013年、181−182頁。



 





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