覚え書:言語を使ってものを考えることができるということ、それが絶望の淵にあってもわたしたちを救う(多和田葉子さんの「ハンナ・アーレント」)

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多和田葉子さんの『言葉と歩く日記』(岩波新書)を読みましたが、非常に素晴らしい一冊です。

「外国語を勉強しながら外国語の文法書を不思議がり、面白がり、笑う、という遊びを意識的に実行している人はあまりいない」−−。日独二カ国語で書くエクソフォニー作家による観察日記。各地を旅しながら、旅の如く、私たちの言葉と生活の「常識」をずらしていく。

著者が移動しながら、立ち止まりながらつづる日常はまさに「言葉と歩く日記」といえば間違っていません。しかしそう「表現」してしまった時点で、「言葉と歩く日記」は手元からすりると抜け落ちてしまいます。

「紹介」することの「もどかしさ」を抱えさせられた一冊です。

さて、本書のなかではアーレント(映画)についていくつか言及があるのでそのひとつを覚え書として紹介しておきます。多和田さんが指摘するシーンは僕も非常に印象的に記憶に残っております。


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二月二十四日
 雪が曇った空からどんどん落ちてくる。ゆうべは友達と近所の映画館で『ハンナ・アーレント』を観た。小さな映画館で、横に六席、奥行きは十列しかない。大変居心地がいい。家から歩いて行ける五つの映画館のうち、これがわたしのベスト2だ。
 一昔前のニューヨーク。パーティー客が集まった広間で、談話がはずんでいる。ハンナ・アーレントが英語をまちがえて、なおされる場面がある。そのうち話が白熱してくるとみんなドイツ語を話し始め、英語しか分からない人は部屋の隅に退く。ドイツから亡命してきてアメリカで暮らしているユダヤ人のインテリたちなのだろう。大学で哲学を講義するだけの英語力があっても、日常生活の中ではほんの小さな言葉のまちがいを犯すことになる。おかげで、たった一つの言語で造られた、たった一つのイデオロギーの中に完全に吸い込まれてしまう危険性を免れる。「ナチス幹部は全員、悪魔のように残忍な人間である」と信じて疑わない大多数のアメリカ人やイスラエル人とは異なり、ハンナ・アーレントは実際の裁判の場でアイヒマンを観察し、彼が悪魔的カリスマなど持ちようのない凡人であることに気づいてしまう。そのことをアメリカの雑誌に書き、大勢のアメリカ人から批判攻撃を受ける。それに対して学生たちを前に英語で弁明する一場面は、あまりにもすばらしくて鳥肌がたった。英語のネイティヴではないことが分かるしゃべり方で、言葉に流されるのではなく、自分の言いたいことを一つ一つ積み木のように積み上げていく。たった一人になってしまっても思考することをやめない人間の勇気と孤独を感じさせられた。
 ハンナ・アーレントによれば、ナチスの一員として多くのユダヤ人を死に至らせたアイヒマンは、悪魔的で残酷な人間ではなく、ただの凡人である。上からの命令に従わなければいけないと信じている真面目で融通のきかないよくいるドイツ人である。個人的にはユダヤ人を憎んでいなかったが、上の命令に従い、自分の義務を果たさなければいけないと信じ、ユダヤ人を殺せと命令されれば殺してしまう。凡人が自分の頭でものを考えるのをやめた時、その人は人間であることをやめる。どんな凡人でも、ものを考える能力はある。考えることをやめさえしなければ。レジスタンスなどとても不可能そうに見える状態に追いつめられても、殺人機械と化した権力に荷担しないですむ道が見えてくるはずだ。言語を使ってものを考えることができるということ、それが絶望の淵にあってもわたしたちを救う。そう語るハンナ・アーレントの英語はまさにものを考えながらしゃべる人間の息遣いに貫かれ、聞いているうちに涙が出てきた。
 一方、かつての恋人だったことのあるハイデッガーは、この映画の中では、母語であるドイツ語をいじりまわして、スピード操作したり、意外なところで区切ったり、独自のアクセントをつけたりして、意味ありげに語る滑稽でケチな野郎として描かれていた。
    −−多和田葉子『言葉と歩く日記』岩波新書、2013年、116−118頁。

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