覚え書:「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『情事の終り』=グレアム・グリーン著」、『毎日新聞』2014年05月18日(日)付。


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今週の本棚:鴻巣友季子・評 『情事の終り』=グレアム・グリーン
毎日新聞 2014年05月18日 東京朝刊

 (新潮文庫・724円)

 ◇創作行為への愛と憎しみの疑似告白録

 グレアム・グリーンの代表作の鮮明な新訳が刊行された。有名な古典作の周りには、その本を遠い昔に読んだ読者のおぼろげな記憶と、まだ読んでいない読者の漠然としたイメージが浮遊している。『情事の終り』でもなんとなく知られているのは、これがある人妻と独身の語り手の不倫関係の回想記であること、彼女の愛した「第三の存在」はこの世のものではなかったこと、ここまでではないか?

 作家で語り手のベンドリックスは小説の取材のために政府高官に近づき、彼の妻サラと恋におちて何年か密会を続けるが、その関係はロンドン空襲のある晩、突然終わりを告げる。それから一年半後に再会があり、語り手はサラに新しい男の影を感じて探偵を雇う。同時にふたりの関係も再燃しかけるが……。

 最初に書くと、『情事の終り』はすっかり情事が終わってからがまた抜群におもしろい。もちろん、世知辛く生々しい情事の記述も、ふたりが再会した後の追跡ドラマ(探偵劇の中心人物なのにコミック・リリーフに近いドジ探偵が傑作)も、惹(ひ)きつけてやまない。しかし彼らが愛したサラの盗みだされた日記が第三部で開示され、第四部で彼女が舞台から退場した後にも、物語はまだまだスリリングに続くのだった。何が書かれるかといえば、遺(のこ)された男性たちの右往左往である。ここにテーマの核心が鏤(ちりば)められている。

 男たちとは、語り手のベンドリックスとサラの謹厳実直な夫。そして、サラが一時期、精神的に頼った合理主義で無神論者。そして、カトリックに改宗しようとしたサラの話を聞いていた神父。誰が一番サラのことを解(わか)っていたのか。彼らはサラと宗教をめぐってぶつかりあい、それぞれに信念のゆらぎを経験する。しまいに語り手とサラの夫がこんな関係になり、無神論者がこんな言葉を口にするとは、グリーン一流の痛烈な皮肉。

 本作はグリーンには珍しい自伝的小説で、語り手は作者の分身的存在とのこと。これは「憎しみの記録」だと序盤に書かれているが、いろいろな意味での告白録でもあろう。ある女性に対する愛と憎しみはもちろん、神に対する愛と憎しみ。それだけではない。作者自身の創作行為への愛と憎しみの疑似告白録としても読める点が、再読で目を引いた。所々で自分の創作流儀を明かしているようでもある。

 土砂降りの夜に公園を歩くヘンリーの姿を想起して始まる冒頭シーンは見事だ。しかし物語は作者が気まぐれに「選んだ」シーンから始まるのではなく、「イメージのほうが私を選んだのではないのか?」と語り手(グリーン)は書く。また、小説を書いていると「座り込んだかのように動こうと」しない登場人物たちがいると愚痴ったりする。そして神にしてみれば、自分たち普通の人間はこういう「詩心も自由意志もない登場人物」と同じでないかと呟(つぶや)く。創作において造り手である彼は、神の登場人物のひとりになることを恐れているのだ。しかし神を信じ愛するとは、そういうことだろう。「(神を愛すれば)僕は仕事も失うだろう。ベンドリックスではなくなるのだよ、サラ。僕はそれが怖い」。

 彼にとって「第三の存在」の露見が衝撃だったのは、恋人を奪った相手が神だったからだけでなく、それが己の創造的自我を脅かすものであったからではないか。人間という小さき創造主の、神という大きな創造主への抵抗。堂々巡りを繰り返す戦い。原題はThe End of the Affairという。情事は終わっても、神との「こと」に終わりはない。(上岡伸雄訳)
    −−「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『情事の終り』=グレアム・グリーン著」、『毎日新聞』2014年05月18日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140518ddm015070048000c.html





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