日記:両極端を避けて生きるということ:吉野作造の中庸

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吉野作造記念館にて講演して、特別展示「吉野作造キリスト教」をざざっと鑑賞しての雑感を忘れないうちに一通り。基本的に吉野のふるさと・古川では作造よりも弟の信次(戦前に商工大臣を務め戦後は運輸大臣)の方が有名というのをどこかで読んだけど、研究員の方に聴いたらやはりそうでした。

吉野作造がデモクラシーいわば「目に見えない」戦いをしたとすれば、弟の信次は、やれ橋を作ったのだとか、やれ道路を整備しただのとか、具体的に「目に見える」戦いをしたと対比できる。形而下と連動した形而上の優位を語ることに吝かではないし、目に見えるを否定しても始まらないので複雑な感慨でした。

「目に見えるもの」との断絶こそインテリゲンチャのドクサだし、橋を整備してくれてありがとうって、吉野信次だけじゃない訳でね。僕は郷土愛がナショナリズムへ収斂することの必至との経緯から、距離をおいているけど、生まれの香川県でも同じで、南原繁よりも大平元首相だから、笑えない話でもあるわけで、せめてもいなおってもはじまらない。

しかし、吉野作造記念館ができることによって、地域の人々で、吉野作造に関心をもち、記念館が一つのネットワークの拠点として機能し、関心をもった人々が、読書会(200回以上とのこと!)や勉強会をして、吉野作造に学ぼうという草奔の自発には驚くと同時に、最敬礼でもありました。

その日は、近代日本キリスト教史の特色(修養倫理的受容・ホワイトカラーの宗教)を紹介した上で、吉野作造は修養倫理としてキリスト教を受洗しましたが、内面に閉じこもる修養倫理的ホワイトカラー的受容に収まりきらなかったことをお話しました。

キーになるのは(1)吉野作造の人間観としての「神子観」、(2)(どの宗教でもそうですが、信仰に薫発されて社会運動に従事する場合で多いのが、社会活動に熱心になるあまり、それについてこない教団から「卒業」してしまうケースが多いのですが)教会に留まり続けた吉野の理由として、

(2−1)対等な人間関係としての信仰者共同体による相互訂正の必要性、

(2−2)吉野は、信仰対象と「私」の間にはいかなる介雑物もはいらないのが宗教生活の理想と見ますので、その理想から信仰共同体に限らず、人間が複数集まり、共に暮らす上においては「無強制」が理想であると考え、天皇制を相対化し、来るべき社会を「人道主義無政府主義」と展望するのですが、それは同時に、信仰共同体の現在のていたらくをも批判する刃として機能しているが如く、いうならば、世俗外変革によって「一気」に変革するのではなく、不断の「世俗内変革」によって変えていこうという意思と実践の現れではないかというお話をしました。

ほんとは吉野の宗教寛容論と「有機的知識人論」で最後をまとめる予定でしたが、これは時間足らず(涙。

吉野作造に学ぶ意義とは、先にブログにも書きましたが、吉野作造の如く生きていくことになりますが、吉野作造の漸進主義的改革プログラム……はやりの現代思想の言説で言えば「未完のプロジェクト」への不断の挑戦でしょうが……これは、やはり、一個の人間としてどのように生きていくのか、という意味で、本当にひとつの理想像になるのではないかと思ったりしております。

直接連動するわけではありませんが「いい話きいて感動した」とか「わが信仰はすごい、これだけやっていればOKですって内向きに開き直る」のではなくして、「さて、今日はこれをしよう」「明日はここに手を打っていこう」という積み重ねをたえまなく続けることで未来を開いていく。同時に、社会派宗教者が、糸が切れた風船の如く、原点からぶっとんでしまうような安直さをさけながら、それをも変革していく。

かくありたいものでございます。

ただ、7月末までにこれを紀要用に一本まとめなければならないのですけど……(つらー



 




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