書評:瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年。

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瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書。「杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通す」裁判官の裁判なら「おおむね正しく、信頼できるもの」とごく普通の市民であれば考えるかもしれないが、日本の実態とはそのようなものではないと元裁判官の著者はいう。「絶望の収容所群島」がその実だ。

実態とは「内に対しては理念なき絶対的統制、外に対しては可能な範囲で迎合、さらに、情実人事によって脇を固め」た醜悪なシステムであり、旧ソ連全体主義共産主義体制に酷似する。良識ある少数派の善意で克服できるほど甘いものではない。

一部良識ある人々をのぞき、イヴァン・イリイチ的官僚的性格か、イリイチ「以下」の高位裁判官によって裁判官は構成され、その「収容所群島」としての裁判所は「国民、市民支配のための道具、装置」として機能する。体験に裏付けられた告発に戦慄を覚える。

勿論、前時代的な汚職の横行する暗黒世界ではないが、廉潔・公正・透明とはかけ離れ、先進国の水準から見ても後進的な世界がその実情。著者は「お上」の用意するキャリアシステムから法曹一元化への転換、奴隷根性の払拭と憲法裁判所の設置に光明を見出す。

「つまり我々の誰からも声が上がらなかったら、何も起こらず、〔人々の〕期待を裏切る結果になってしまう。特に問題なのは、権力を持った者の沈黙による『裏切り』、彼らは、何が実際起きているかを見ることさえ拒否している」(ボブ・ディラン)。

著者はボブ・ディランに言葉を紹介しながら、知りかつ考えることを訴える。本書は裁判所の現状とその問題の分析、そして変革への道筋をつける一冊だが、事は裁判所に限定され得ない射程を秘める。日本的馴化の心性更新のきっかけになる一冊だ。





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 日本の社会には、それなりに成熟した基本的に民主的な社会であるにもかかわらず、非常に息苦しい側面、雰囲気がある。その理由の一つに、「法などの明確な規範によってしてはならないこと」の内側に、「してもかまわないことにはなっているものの、本当はしないほうがよいこと」のみえないラインが引かれていることがあると思われる。デモも、市民運動も、国家や社会のあり方について考え、論じることも、第一のラインには触れないが、第二のラインには微妙に触れている、反面、その結果そのラインを超えるのは、イデオロギーによって導かれる集団、いわゆる左翼や左派、あるいはイデオロギー的な色彩の強い正義派だけということになり、普通の国民、市民は、第二のラインを超えること自体に対して、また、そのようなテーマに興味をもち、考え、論じ、行動すること自体に対して、一種のアレルギーを起こすようになってしまう。不幸な事態である。
 これは、日本の論壇におおむね右翼に近い保守派と左派しかおらず、民主社会における言論の自由を守る中核たるべき自由主義者はもちろん、本当の意味での保守主義者すら少ないということとも関係している。
 そして、日本の裁判所は、先の第二のラインによって囲まれる領域がきわめて狭く限定されている社会であり、また、第二のラインを超えた場合、あるいはそれに触れた場合の排除、懲罰、報復がきわめて過酷な社会なのである。
 ソルジェニーツィンの小説やドキュメント、ショスタコーヴィッチの音楽や自伝(S・ヴォルコフ編、水野忠夫訳『ショスタコーヴィッチの証言』中公文庫)は、裁判官を務めながらそれらに接すると、実に身につまされるものがある。日本の裁判所は、実は、「裁判所」などではなく、精神的被拘束者、制度の奴隷・囚人たちを収容する「日本列島に点々と散らばったソフトな収容所群島」にすぎないのではないだろうか?
 その構成員が精神的奴隷に近い境遇にありながら、どうして人々の権利や自由を守ることができようか? みずからの基本的人権をほとんど剥奪されている者が、どうして、国民、市民の基本的人権を守ることができようか?
 これは、笑えないパラドックスである。
    −−瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年、111−113頁。

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