覚え書:「今週の本棚:斎藤環・評 『サルなりに思い出す事など』=ロバート・M・サポルスキー著」、『毎日新聞』2014年06月29日(日)付。

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今週の本棚:斎藤環・評 『サルなりに思い出す事など』=ロバート・M・サポルスキー著
毎日新聞 2014年06月29日 東京朝刊


 (みすず書房・3672円)

 ◇愛すべきヒヒの死、根底に怒りと祈り

 まずはタイトルの勝利である。もし今年のタイトル翻訳賞なんてものがあったら、上半期ならトップ、年間ベストスリー入りも確定済みだ。原題を直訳すれば“霊長類の追憶”となるところを、まるでサル本人が記したかのようなそそるタイトルは、思わず手に取ってみたくなる。

 舞台は東アフリカ。そう、あの伝説の地、ヘミングウェイが『キリマンジャロの雪』に描き、アイザック・ディネーセン『アフリカの日々』の舞台となり、気高く美しいマサイ族の戦士たちがライオンを狩る神話の地。しかし容赦なく時代は変わる。

 著者がアフリカに滞在したのは「ジョン・トラボルタがこの世に存在する最重要人物とされ、お洒落(しゃれ)を自認する人々は、全員白いスーツを身につけていた時代」だった。もはや狩猟は禁じられ、かつてのハンターたちは密猟者の取り締まりに精を出す。伝説も神話も消えゆくあの時代。

 著者はニューヨークで生まれ育ったユダヤ人にして無神論者。幼き日の夢はマウンテンゴリラになること。それが無理と知った彼は、妥協してヒヒの研究者となった。神経科学者として、ストレスが神経に及ぼす影響を研究すべく、単身はるばるケニアに赴き、ヒヒの群れに身を投じたのだ。当時彼は21歳。知り合いもツテもないまま東アフリカの地にたどり着いた彼は、さっそく詐欺師にだまされる。

 めげずにたどり着いたキャンプ地で、ヒヒとの暮らしがはじまる。ソロモンと名づけられたリーダーが率いる60頭ばかりの群れ。ヒヒが選ばれた理由は、彼らが複雑な社会集団を形成すること、生態系の頂点に近い位置にあり、飢えや捕食の恐怖にわずらわされないため、“精神的”ストレスだけが問題となること。つまり彼らをわずらわすのは、ケンカや恋愛といった、“対ヒヒ関係”のみ。この状況は人間にきわめて近いため、ストレス研究にはうってつけなのだ。

 かくして著者は毎日のようにヒヒに吹き矢で麻酔を打ち込み、採血してはストレスホルモンを測定する作業にいそしむ。

 個体識別のためにヒヒたちにつけられた名前がふるっている。ソロモン、ネブカドネザルダビデ、アブサロム……そう、旧約聖書にちなんだ名前ばかりなのだ。進化論を軽蔑した教師たちへの復讐(ふくしゅう)、という意図があったらしいが、ユダヤ教のもとで育った著者がこんなふうに書く効果は絶大である。「(レベッカには)はつらつとした隣のヒヒちゃん的な親しみやすさがあった」「ネブカドネザルの口臭が特別ひどかった」などなど。

 ユーモアと言うよりはギャグ満載のこうした筆致に対して、真面目な学者からは「擬人化がすぎる」との批判があるらしい。しかし命名からして「わざとやっている」この著者に、そんな批判は無意味だ。なによりもこの文体には、ヒヒもマサイ族も白人も、そしてなにより著者自身も含め、みんな平等に笑いのめすという素晴らしい効果があるのだ。

 ところで著者によるヒヒの研究報告で、私が最も感銘を受けたのは、以下のくだりだった。「重要なのは、きびしい状況に追いこまれたときにそれにうまく対処する方法を持っているかどうか、つまり社会的なつながりがあるかどうかであるらしい。(中略)つまり順位にかかわらず、群れの仲間との毛繕いの回数が多い者やいつも他のヒヒたちと接触をもっている者たちは、ほとんどの場合血液中のストレスホルモンの値がもっとも低かった」

 この観察結果は、最近話題の「スクールカースト」を思わせる。教室空間では、友達が多く、親密さを確認するための「毛繕い的コミュニケーション」が得意なものほど、ストレスの少ない学校生活が送れる。ヒヒとの違いは、ボスに戦いを挑んで力関係を逆転させるチャンスが人間にはずっと少ない、という点くらいか。

 21歳でアフリカを訪れた著者は、博士号を取得してポスドク(非常勤職員)になり、業績が認められて大学教授となり、パートナーを獲得して繁殖態勢に入る。本書はヒヒたちの生態記録であると同時に、著者自身の成熟の記録でもある。著名なゴリラ研究者で、著書『霧のなかのゴリラ−マウンテンゴリラとの13年』(早川書房)で知られるダイアン・フォッシーの墓を訪ねるくだりなどは、自らのもう一つの人生の可能性をたどるかのようで心に残る。

 最終章はいささか痛ましい。ヒヒの群れになぜか牛の結核が流行する。罹患(りかん)したヒヒは肺が溶けて死ぬ。ダビデ、アブサロム、ベニヤミン、沢山の“わたしの”ヒヒたちが、病に倒れていく。原因はツーリストロッジで捨てられる病気の牛の肉だった。怒った著者は事態を改善すべく奔走するが、複雑怪奇なアフリカの政治の壁に阻まれる。

 ここに至ってようやく評者は気付いた。あの不真面目にも見える皮肉とユーモアの底には、愛すべきヒヒたちに死をもたらしたものへの怒りと祈りとがあった。神話化せずにアフリカへの愛憎を記すには、この文体しかなかったのだ、と。(大沢章子訳)
    −−「今週の本棚:斎藤環・評 『サルなりに思い出す事など』=ロバート・M・サポルスキー著」、『毎日新聞』2014年06月29日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140629ddm015070014000c.html





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