覚え書:「今週の本棚:松原隆一郎・評 『アダム・スミスとその時代』=ニコラス・フィリップソン著」、『毎日新聞』2014年08月03日(日)付。

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今週の本棚:松原隆一郎・評 『アダム・スミスとその時代』=ニコラス・フィリップソン著
毎日新聞 2014年08月03日 東京朝刊

 (白水社・3024円)

 ◇ヒューム由来の正義感と共感

 アダム・スミスほど日本人に親しまれてきた経済学者はいない。金融で儲(もう)けるよりも実直なものづくりで立国といった主張が好ましく響くのだろう。しかし一方で生前にものした著作全体で何を主張した人物かとなると、思いのほか理解は難しい。

 たとえば現代の経済学者の多くは『国富論』(一七七六)のみを読み、利己心にとらわれた個々人が行動した結果、市場において生産要素別の費用と商品価格が定まるとしたくだりや、防衛や司法・公共事業に限り政府の働きを認めるといった留保を見いだして、「経済学の父」は現代のミクロ経済学を数学を用いずに粗くスケッチしたのだと納得する。

 これに対し思想史家のフィリップソンは、流通の循環は数学法則に従うとしたF・ケネーにつきスミスが「価格と価値の問題において物を言うのは『駆け引きや交渉』であって、数学的な必然性ではない」とみなしたとする。スミスは誤読されている。

 『道徳感情論』(一七五九)を「利他心」に光を当てたとみなす解釈に対しては、共感の交換を通じ正義の感覚が育つ様を描いた書として、むしろ商品の交換を描いた『国富論』と共通すると述べる。スミスの諸作は、最初期から「交換」という視点で貫かれているというのだ。ではこの着想はどこから生まれたのか。それをD・ヒュームが『人間本性論』で展開した「人間学」に求めたのが本書の新機軸である。

 ヒュームは、世界にかんする知識は理性が与えるのではなく、その起源は想像や情念にあるとする。人は知的能力を、「共感ないし伝達の原理」にもとづき習慣や慣習、教育や日常経験を通じて獲得する。しかしなぜかヒュームはこの見方を用いて倫理学や法学、経済学を体系化しなかった。それに取り組んだのがスミスの諸作品であった。スミスの初期の発想は、様々に変奏されつつ維持されたのだ。まさに「思想の伝記」。既存の伝記で取り上げられてきた誘拐や放心癖等のエピソードは割愛されるが、代わりに土地柄や宗教界の情勢が詳述されている。

 スミスは修辞学において、言葉は適切に使われたとき心地よさをもたらすとした。社交は適切さの感覚によって司(つかさど)られ、知的・美的感情のみならず、正義の感覚までが他者とのやりとりの過程で獲得される。それを描いたのが『法学講義』や『道徳感情論』であった。スミスはこれらを論じるにあたり、「推測的歴史」という方法をとる。日常生活や歴史の事例から推論を重ね、常識と経験に訴えるのである。数学よりも健全なたとえの訴求力を重視するという姿勢は終生変わらなかった。

 『国富論』の最大のもくろみは重商主義を排撃することにあった。独占貿易のせいで資本はヨーロッパ内部の循環から対米貿易へと流れを変え、英国の小規模市場は大市場に圧倒されていた。その流れを強いた統治の原理が重商主義であった。これに対しスミスは、生産と取引は国内から生じるものであり、貿易は余剰でなされるという順序こそが「自然の成り行き」だと言う。この説明は、論拠がないとして評判が悪い。後の経済学は、個人の自由と利己心の充足という観点から国家による市場への干渉のみ批判する。

 しかし本書を読めば、「事物の本来の順序」という観念はヒューム由来の正義感覚や共感がもたらしたことになろう。アメリカが仕切るアジアとの貿易で国内経済を政策により立て直そうとするアベノミクスは、スミス的に不自然な重商主義である。読者は、いまなお世界がスミスの射程にあることに驚くであろう。(永井大輔訳) 
    −−「今週の本棚:松原隆一郎・評 『アダム・スミスとその時代』=ニコラス・フィリップソン著」、『毎日新聞』2014年08月03日(日)付。

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アダム・スミスとその時代
ニコラス フィリップソン
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