覚え書:「今週の本棚:養老孟司・評 『<わたし>はどこにあるのか−ガザニガ脳科学講義』=マイケル・S・ガザニガ著」、『毎日新聞』2014年09月14日(日)付。

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今週の本棚:養老孟司・評 『<わたし>はどこにあるのか−ガザニガ脳科学講義』=マイケル・S・ガザニガ著
毎日新聞 2014年09月14日 東京朝刊

 (紀伊國屋書店・2160円)

 ◇物理化学的現象で個人の行為は決まる?

 原題は「主導権を持っているのはだれか」といった意味である。つまりヒトは自分でものを考え、決定している。その「自分」に相当する存在とは、脳科学でいうといったいなにになるのだろうか。

 欧米の文化では個人、あるいは自己が重要な意味を持つ。キリスト教の教義では、ヒトは理性と自由意志と良心を持つ。なかでも問題は、この自由意志である。岐路に立ったとき、われわれは善悪どちらの道も自分で選ぶことができる。そのことである。だからこそ行為の責任も生じる。でもそれは本当だろうか。もし意識が脳から生じる機能であるなら物質的な基盤があるはずで、それなら個人の行為といえども、物理化学の法則で決定されているのではないか。

 本書の最初の二章は、それに関する現代の脳科学の知見をまとめて語る。脳は並列分散処理をしている。つまりそこにはだれか、舵取(かじと)りの主体がいるわけではない。いくつもの異なる機能が並列して走っている。そういうしかない。ではなにがあるのかというなら、そうした処理の規則である。最終的な決定権を持つ「だれか」、つまりホムンクルスが脳の中にいるわけではない。

 そのことに関連して、次の三章と四章が導かれる。三章はインタープリター・モジュールと題されている。これは主に左脳の働きである。左脳はたとえば自分のしたことについて、事後的に説明をいわばでっちあげる。こういうつもりでこうした。ヒトはよくそういう。でも脳科学にいわせると、そうではない。水を飲もうと思って手を出すとき、「水を飲もうと思ったから、手を出した」という。でも脳を計測していると、「水を飲もうと思う」以前に、脳は水を飲む方に向かって動き出していることがわかる。これは七十年代から実験的に知られていたことである。この解釈はなかなかむずかしい。でもともかく「水を飲もうと思って手を出すことにした」という主体が脳で見つかっているわけではない。第四章が著者のいいたいことの中心の一つである。「自由意志という概念を捨てる」と題されている。その議論の主軸は、創発という概念である。ニューロンを調べても、それが集団になったときの機能が論理的に予測可能なわけではない。つまり脳内の細かい物理化学的な現象がわかっても、その人がなにをするかという厳密な予測が可能になるわけではない。

 最後の三章は社会と脳の関係になる。もし自由意志という概念を捨てるなら、たとえば刑事責任はどうなるのだろうか。そもそも社会と脳の関係はどうなっているのか。自然科学を学んだ人間には苦手な話題だが、それを考えないことには、話が進まない。なぜなら社会はさまざまな規則を作ることによって、長い年月の間には脳自体を選択してしまうに違いないからである。

 著者は一九三九年生まれ、米国人で、生涯を脳科学認知科学の専門家として過ごしている。議論に奇抜なところはない。大変穏当な現代の常識というべきであろうか。日本人は自由意志をほとんど考えない。周知のように、大事なことはその場の空気で決まる。つまり状況依存である。それはそれで客観的だというのが私の意見だが、書評は自分の見解を述べるところではない。現代の欧米の脳科学の関心と到達点を知るために、たいへん参考になる書物であろう。(藤井留美訳)
    −−「今週の本棚:養老孟司・評 『<わたし>はどこにあるのか−ガザニガ脳科学講義』=マイケル・S・ガザニガ著」、『毎日新聞』2014年09月14日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140914ddm015070012000c.html





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〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義
マイケル・S. ガザニガ
紀伊國屋書店
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