覚え書:「今週の本棚:湯川豊・評 『見る悦び−形の生態誌』=杉本秀太郎・著」、『毎日新聞』2014年10月19日(日)付。

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今週の本棚:湯川豊・評 『見る悦び−形の生態誌』=杉本秀太郎・著
毎日新聞 2014年10月19日 東京朝刊
 
 (中央公論新社・3780円)

 ◇熟達の目の働きが語る東西の絵画「経験」

 まず、俵屋宗達讃ともいうべき文章が並ぶ。そのうちの何篇かをまとめて「宗達経験」という題名でくくられているが、杉本秀太郎氏の熟達した目が、長い時間をかけて、江戸時代初期の京の町絵師の仕事を見つづけている。それはまさに「経験」というにふさわしい。

 宗達はどんな権門とも無縁で、町の絵師という自覚を忘れなかったが、その絵を見ていると「私の影絵」が現れてくるようだ、と杉本氏はいう。その言葉から、フランス文学を専攻するこの優雅なる文人は、京の大商人の末裔(まつえい)であることを想起させる。

 宗達の他に二つとない特徴として、おかしみすなわち諧謔(かいぎゃく)と、それを支える技芸すなわち文様図柄のすばらしさが挙げられる。

 諧謔については、そこに憂鬱の仄(ほの)暗いヴェールがかかっていると指摘し、それと同種の感覚として、シューマンピアノ曲「フモレスケ」が思い出される。経験が別の経験を呼んで重層する。この著者の発想の見本といっていいだろう。

 文様図柄については、杉本氏の驚くべき発見がある。たとえば二曲一双の「舞楽図屏風(びょうぶ)」。ここに描かれた九人の舞いの姿態には、すべて宗達が引用した粉本がある。宗達は引用に際して元の絵を充分に批判したうえでやっているのだが、これは和歌における本歌取りにひとしい、というのだ。

 これを逆の側からいうと、『古今和歌集』は特別な修辞技法によって本歌取りを実現したことによって、「言語のまま文様と化した文芸」であると説明される。

 絵画の分野で行使された本歌取り宗達の「源氏物語 関屋・澪標(みおつくし)図屏風」にも顕著に見られるという。そしてこの本歌取りは、いかなる流派にも属していない、腕のたしかな町方の絵師たちへの共感がこもっている、と指摘されている。

 私はこの杉本氏の発見に、心底驚いた。かつて丸谷才一が、後鳥羽院と『新古今和歌集』に見たモダニズム文学の成り立ちと同じもの、同じ斬新さと伝統の発現に、はからずもここで出会うことができたのである。

 この著者にとって、本の題名にもなっている『見る悦(よころ)び』とは、絵の見方を創造することではないか、と読みすすむうちに思い至った。見方をつくり出せないような絵はつまらない。しかし、この見方を創造するのは、それをさせてくれる絵がそこになければあり得ない。いってみれば、画家と一緒に絵を再創造していくことが、杉本氏にとっての絵画「経験」なのである。

 それは「ゴーギャン画中の鯨」という一篇を読むといよいよ明らかになる。

 東京のブリヂストン美術館にある、ゴーギャンの「乾草(ほしくさ)」(かつては「ブルターニュ風景」という題だったが、なぜか変えられた)を、自ら水彩による模写をするまでして、見つづける。

 見つづけるうちに、沼の中にあった露岩が変容し、青い鯨(セミクジラ)になる。ハート型をした橙(だいだい)色の傷口、腐りつつある尾鰭(おびれ)。それらがこれ見よがしに出現すると同時に、他にも隠されているさまざまなものが見えてくる。大小の水鳥の影が画中で羽ばたく。なによりも画面左下にいて、うつむいて作業をしているらしい男の背に、死んだ白鳥がいる。長い首を背中にそってだらりと垂れて。

 そして池と明るい草原の境をつくっている、謎めいた橙色の大きな突起物と、そこから流れ出る赤い筋は何なのか。

 これはゴーギャンが秘蔵していた『北斎漫画』中の、「阿波の鳴戸」に描かれた大岩が、ほとんどそのままの形で写し取られているのではないか。そして「乾草」の突起物の橙色は、『北斎漫画』の表紙の色に他ならない。

 さらには、絵の中の樹木は、コローの絵の引用であり、それと気づけば絵の中にドガの踊り子たちの影が動きはじめる。ゴーギャンがコローとドガを格別に敬愛していたことを思えば、愛着していた北斎を加えた三人へのひそかなオマージュが隠し絵として埋めこまれているのを、杉本氏は発見する。

 しかし、それで青い鯨が中央に横たわるという謎が解けたわけではない。解けないままに、杉本氏は京都は嵯峨にある鹿王(ろくおう)院の「涅槃(ねはん)図」を思い出す。思い出して嵐山線に乗ってもう一度これを見に行く。図の中央に鯨のように横臥(おうが)する釈尊を見て、納得するものがあった。そのときの「涅槃図」を描写する文章は限りない美しさと高みに達している、と私は読んだ。

 ルネサンス期のヴェローナの画家ピサネロを論じて、杉本氏は「装飾は物に食い入り、物をあばく秘術にひとしい」と明言している。宗達ゴーギャンも、写生ではなく装飾性をみごとに実現した画家であった。洋の東西を問わずにある装飾性の達成が、京住まいの最後の文人の「経験」として、自由に、存分に語られているのである。
    −−「今週の本棚:湯川豊・評 『見る悦び−形の生態誌』=杉本秀太郎・著」、『毎日新聞』2014年10月19日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141019ddm015070028000c.html






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