覚え書:「耕論:日韓『愛国』の圧力 小倉紀蔵さん、趙景達さん」、『朝日新聞』2014年10月24日(金)付。

5_2

        • -

(耕論)日韓「愛国」の圧力 小倉紀蔵さん、趙景達さん
2014年10月24日

 竹島慰安婦の問題に加え、産経新聞前ソウル支局長の在宅起訴で、改善の糸口がなかなかつかめない韓国との関係。韓国政府の行動にも影響を及ぼす社会の「愛国」の根っこには何があるのか。韓国の文化や思想に詳しい2人に聞いた。

 ■人類史の難題に共同で挑戦を 小倉紀蔵さん(京都大学教授)

 韓国社会には500年に及ぶ朝鮮王朝の時代に支配理念だった朱子学の影響がいまも色濃く残っています。王朝そのものは1世紀以上前に消滅しましたが、外からみれば、社会を覆う朱子学の強力な磁場が痛感されます。

 見えやすい磁場は国民を一律に縛る道徳の厳しさです。これは親への孝行や恭順、長幼の序を重んじるなど主に儒教的な徳目です。

 ただ、こうした見えやすい徳目より重要なのが、「普遍的な善き価値」を重んじることです。その普遍的価値とその人が一体化しているかどうかが、人物を評価する最大の尺度になっています。

     *

 <朱子学のくびき> 普遍的な価値とは、昔は朱子学の真理を理解し、それに従って生きることでした。いまの韓国では、それが人権や民主主義など西欧近代の価値に取って代わりました。キリスト教信者にとっては神です。

 いくつかの普遍的価値が社会の中で併存しますが、ひとつの価値観に基づいて物事を捉え、人の値打ちも含めて評価する。そうした思考形態が残っていることが、朱子学の最も強力な磁場なのです。

 現代韓国社会で、併存している様々な価値を統合する究極的な価値、最高の道徳になっているのが「愛国」です。

 五輪の金メダリストや世界的音楽家も、能力や実績だけでは尊敬されず、国家や民族への貢献度で「誰が1番か」を比べられる。どんなに人気がある芸能スターでも、自分は道徳的、すなわち愛国的な人間だと世間に言い続けなければなりません。朴槿恵(パククネ)大統領ですら、自分に「親日」のレッテルが貼られるのを恐れて、日韓関係正常化に動けないのです。

 注意せねばならないのは、「日本の韓国化」といえる現象です。

 日本は明治になって朱子学的思考様式に覆われたと私は考えています。中央集権国家を築き、工業化、軍事化を進めるため、高級官僚を試験で登用し、人的資源を結集した。第2次大戦前、愛国心で国民統制を徹底した時代、日本の朱子学的社会はその極に達しました。国民に国家との一体化を強いる愛国的な価値観は今も日本社会に生き続けています。だから韓国の反日世論に刺激されると嫌韓の世論が膨らんでしまいます。

 過剰な道徳、とりわけ愛国の圧力が高まると、政治家は「不道徳的な取引」との印象が伴う譲歩や妥協に踏み込めなくなります。日韓の両首脳はまさにこのような状況に陥っているように見えます。

     *

 <「独善」に陥るな> 道徳の束縛が行き過ぎる最大の罪は、事実の見方が独善的になることです。日韓対立の核心は慰安婦問題ですが、日本は河野談話などで「戦時における女性の人権蹂躙(じゅうりん)」という普遍的問題と位置づけ、謝罪してきました。日本に植民地時代の歴史を正視するように迫る韓国側はこの事実も直視すべきですが、それを拒むゆえに事態が混迷しています。

 一方、日本側は韓国が問題をグローバルな観点から提起している意味をよく考える必要があります。韓国は1987年の民主化実現と冷戦崩壊を受け、グローバル化、IT産業化、文化輸出でめざましく成長しました。国民こぞって特定の目標に突進する、朱子学の影響が強い一元的社会の強みが発揮されたといえるでしょう。

 この経験が、グローバル化に適合している自分たちは優秀だという新たな愛国心を、若い世代を中心に強めています。グローバル化が新たな「普遍的な価値」になっているのです。日本はグローバル化に乗り遅れている、劣っていると見なし、こうした認識と「歴史問題を直視しない」という従来の批判とが相まって、慰安婦問題解決を含む日韓関係の打開を難しくしています。

 日本も大きな観点に立つべきです。慰安婦問題や植民地主義の克服は、人類史における重要な問題であり、日本はこれまで、これらの難問に世界で率先して取り組んできたと私は考えています。その歴史を自ら捨ててはなりません。

 様々な問題の最終決着を、人類史に残された難題を解く日韓共同の挑戦と位置づけること。高い理想をめざすことは韓国現代社会の新たな愛国心にも響くはずです。

 (聞き手・川戸和史)

     *

 おぐらきぞう 59年生まれ。専門は韓国思想・東アジア哲学。NHKハングル講座の講師も務めた。著書に「朱子学化する日本近代」「韓国は一個の哲学である」など。

 ■「見解の相違」では未来開けぬ 趙景達さん(千葉大学教授)

 儒教の教えをきちんと学べば、庶民でも聖人になりうる。これが朱子学の思想の核心です。「王の下で万民は平等」という一君万民(いっくんばんみん)思想と、「政治は民のためにある」という民本(みんぽん)主義もあった。朝鮮王朝時代にこうした考え方は人々に浸透し、朱子学の教義を軸に社会の価値観が一元化しました。

 ところが、仁義礼智信という儒教の普遍的な道徳について、どんな行動がそれにあたるかという解釈は個人によって違うことがある。だから「自分はこれこそが正しい道徳と考える」という論争が、庶民の間でも、ごく当たり前になりました。論争好きの風土や民本主義などの伝統の下に発展したのが韓国の民主主義です。NGOや市民の自発的な運動も、日本よりはるかに活発な印象です。

     *

 <議論避ける日本> 一元的な価値観を共有する者同士だからこそ論争が成立し、議論し合える。世界的にみればキリスト教圏、イスラム教圏など、こうした社会の方が多数派でしょう。

 朝鮮王朝の身分制が緩やかだったことも独特の政治文化を育てました。一方、江戸時代の日本では士農工商という身分制が厳格に存在し、身分や階層ごとの価値観、倫理観の違いは当たり前でした。価値観が多元的な社会になりはしたが、そのことが逆に、人間同士分かり合えない事柄はあると、最初から議論を避ける空気を、日本に作り出したように思います。

 この夏、長崎市で、安倍晋三首相は原爆被爆者たちとの話し合いの場で、集団的自衛権の行使容認への懸念に対して「見解の相違です」と語りました。考え方の違いを議論で埋めることを放棄するようなこの言葉が、日本の政治文化の特徴をよく示しています。

 朱子学朝鮮半島の近代化にも影響しました。王朝時代には、朱子学の教えに照らせば、親への孝が君主への忠よりも優先され、国というものは相対化されていました。20世紀初めに徴兵制導入が議論された時も「民を苦しめる」と断念されたくらいです。明治維新で徴兵・徴税制度や義務教育をあっという間に整備して富国強兵を進めた日本とは対照的です。

 独立後、初代大統領の李承晩は権威主義的な「一民主義」を掲げました。これは「大統領の下での万民平等化」で、一君万民思想が継承されています。国を束ねるための「愛国」教育も始まり、親日派とされた朴正熙大統領の時代に皮肉にも強まりました。

     *

 <政治は民のもの> 上からのかけ声によらず、社会に自発的なナショナリズムの動きが噴き出てきたのは、1997年のアジア通貨危機の頃からだと思います。大量倒産や失業、財閥解体が起こり、経済再生の活路を一層輸出に求めた結果、グローバル化が日本より進みました。

 他方、国内では低賃金、不安定雇用や社会保障の弱体化が進んだ。貧富は拡大し、自殺率は世界最悪水準に。敬老精神などのよき儒教道徳も薄らぎました。その中で、人々が「本来、政治は民のためのものだ」というかつての政治文化に根ざした異議を、国家に申し立てている。グローバル化の加速が自分たちを守れという「閉じる力学」を社会にもたらして、本来、相対的に考えられていたはずの国に依存する空気を生みました。それが「愛国」の背景です。

 産経新聞前ソウル支局長の在宅起訴という強硬措置は、こうしたナショナリズムの盛りあがりの中で、一君万民の伝統に根ざす「最高為政者の権威」を、国の体面とともに過剰に守ろうとしたものにほかならないと思います。

 「閉じる力学」は現在世界中で強まっており、日本も同様です。むしろ「愛国」は日本が先んじました。19世紀半ばから天皇中心の国体思想が形成され、それが近代日本の骨格となりました。韓国社会がいま「愛国」を唱えるのは、「韓国の日本化」です。日韓両国にいま必要なのは、「愛国」と「愛国」が衝突する状況がなぜ生まれているのか、冷静になって考えてみることです。

 そして、韓国の伝統的な政治文化や人々の考え方を踏まえたうえで日本側には韓国側との理性的な論争を期待したい。「見解の相違です」という姿勢のまま議論を深めなければ、未来は開けないでしょう。

 (聞き手・永持裕紀)

     *

 チョキョンダル 54年生まれ。専門は朝鮮近代史、日朝の関係史と比較思想史。最近の著書に「植民地朝鮮と日本」、共編著に「薩摩・朝鮮陶工村の四百年」など。

 ◆キーワード

 <朱子学> 12世紀に中国・南宋朱子がまとめた学問体系。儒教の教えを再構築し、自分と社会、宇宙との関係をどう考えるべきかなどを教える。朝鮮王朝(1392〜1910)では統治の根本原理とされ、政治や社会に大きな影響を与えた。
    −−「耕論:日韓『愛国』の圧力 小倉紀蔵さん、趙景達さん」、『朝日新聞』2014年10月24日(金)付。

        • -




http://www.asahi.com/articles/DA3S11418294.html





52

Resize2548


植民地朝鮮と日本 (岩波新書)
趙 景達
岩波書店
売り上げランキング: 226,783

朱子学化する日本近代
小倉 紀蔵
藤原書店
売り上げランキング: 345,793
歴史認識を乗り越える (講談社現代新書)
小倉 紀蔵
講談社
売り上げランキング: 129,243