覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『回顧七十年』=斎藤隆夫・著」、『毎日新聞』2014年10月26日(日)付。

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今週の本棚:荒川洋治・評 『回顧七十年』=斎藤隆夫・著
毎日新聞 2014年10月26日 東京朝刊


 (中公文庫・1080円)

 ◇誰よりも先にたたかった議会政治家の記録

 斎藤隆夫(一八七〇−一九四九)の自叙伝の新版。明治憲法下に生きたが、その政治哲学は今日も強烈な印象を残す。

 兵庫・出石(いずし)の農家の生まれ。東京専門学校を出て弁護士になったあとアメリカ留学。明治四十五年、国民党から立候補、初当選(以後十三回当選)。著者は子供時代、英語の勉強、次々愛児を亡くす悲しみ、関東大震災、政界の情勢を淡々とつづる。法制局長官になったとき。「生家に立ち寄り墓参をなし、氏神に詣(まい)り観音堂にて村の人々の質朴なる歓迎を受け、少年の頃通学したる福住小学校その他数か所の歓迎会にも臨みて豊岡に引っ返し、ここにても同志の歓迎会に出席し、夜に入りてから城崎に帰宿した。この日は一生の思い出である」。なぜ政治家をめざしたかは書かれていない。政治家として「した」ことが中心。他には熱意がない。ほんとうの自伝とは、このように簡素なものなのだ。世の自伝とは別もの。目の覚める思いがする。

 小柄。印象も地味。だが戦争前夜、戦争期を通し、軍部と正面からたたかった、ただひとりの政治家だった。誰にもできないことをした特別な人だ。本書は斎藤隆夫の名高い二つの演説を「全文」収録。

 二・二六事件直後の昭和十一年五月、衆議院本会議での「粛軍に関する質問演説」。斎藤隆夫は、軍部の政治介入を批判、「国民の忍耐力には限りがあります」「何となくある威力によって国民の自由が弾圧せられるがごとき傾向を見るのは、国家の将来にとってまことに憂うべきこと」。一時間二十五分に及ぶ大演説。嵐のような拍手に包まれた。「斎藤氏熱火の大論陣、国民の総意を代表」(東京日日)「衆議院に深刻なる感銘」(大阪朝日)「軍人の政治運動は危険、斎藤氏の舌鋒(ぜっぽう)鋭し」(大阪毎日)「正に身を以(もっ)て言論自由の範を垂れた」(読売新聞)。

 四年後の昭和十五年二月、「支那事変処理に関する質問演説」では日中戦争への疑問を表明、侵略戦争の本質を衝(つ)く。「聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰(いわ)く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を掴(つか)むような文字を列(なら)べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない」。一時間半の演説。このときも拍手が起こったものの、「議場には何となく不安の空気が漂うているように感ぜられた」(本書)。軍部は「聖戦」を冒〓(ぼうとく)するものとし、政府に圧力。斎藤隆夫は議員を除名された。このあと日本は太平洋戦争へと突き進む。

 斎藤隆夫の演説は論理的であるだけでなく、いちばん大切なことを誰よりも早くことばにするところにいのちがある。このような理性と気概はそのあと、どの世界でも失われたものだと思われる。斎藤隆夫は当時の社会・国家体制を信じた。本義を守り国情に合わせて改正を加えていけば危険なことにはならないという考えである。だがそうした背景を超えて、そのことばはいまも胸に迫る。

 議会政治の力を思い知った。この回顧録には、当時の文学・思想界を席巻した左翼の動静は全くといっていいほど出てこない。議会への通路について考えをもたない反戦文学、プロレタリア文学は、いまに残すものも少ない。議会政治が政治のすべてではない。だが議場の外側での動きは、どのようによいものであっても力とはなりえないのだ。そのことを忘れてはならないと感じた。
    −−「今週の本棚:荒川洋治・評 『回顧七十年』=斎藤隆夫・著」、『毎日新聞』2014年10月26日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141026ddm015070040000c.html






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