覚え書:「今週の本棚:内田麻理香・評 『見てしまう人びと−幻覚の脳科学』=オリヴァー・サックス著」、『毎日新聞』2014年11月16日(日)付。

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今週の本棚:内田麻理香・評 『見てしまう人びと−幻覚の脳科学』=オリヴァー・サックス
毎日新聞 2014年11月16日 東京朝刊
 
 (早川書房・2484円)

 ◇ドストエフスキーは神を見た?

 『源氏物語』で、光源氏が登場する最後の巻が「幻」。源氏が亡き妻・紫の上を想(おも)い「大空を通ふまぼろし夢にだに見えこぬ魂(たま)の行く方(へ)尋ねよ」と詠む。夢にさえ現れない紫の上を偲(しの)び、幻を操る者にその魂の行方を探し出してほしいと願う歌だ。『源氏物語』の世界では、夢と幻が区別されている。夢はわかるが、幻とはいかなるものか。本書はその「幻覚」を扱った一冊である。

 幻覚は、「外的現実がまったくないのに生まれる知覚」のことを指す。そこにないものを見てしまう幻視、聞こえてしまう幻聴だけでなく、あらゆる感覚に生じる。病気や後遺症に関わる幻覚もあるが、発熱や不眠などの体調によって経験する場合もあるので、誰にでも起こりうる。本書は、幻覚が狂気の予兆ではなく、私たちの精神世界や文化を形成してきた「特別な意識状態」だということを、科学的アプローチだけでなく、文学や芸術作品、歴史などと照らし合わせることを通じて示してくれる。

 著者は、映画化された『レナードの朝』など医学エッセイを著したことで知られる医師、オリヴァー・サックスである。読者が追体験しているかに思える鮮やかな筆致は、彼自身が薬物によって多数の幻覚を体験したことに関係しているかもしれない。新米の神経科医であった彼は、脳を理解したいという熱意から、幻覚も体験しなければと考える。当時は薬物に対して寛大だったこともあり、次々と薬物を手に入れ、週末は危険な実験にふけった。背筋が凍る体験談も多い。薬物以外でも、彼には片頭痛の前兆としての幻視、入眠時の音楽幻聴などの経験もある。ちなみに、夢と幻覚の区別は難しいが、著者はそれぞれ異なるメカニズムを持つ別物という解釈をしている。

 彼が幻覚の研究者として踏みとどまり、薬物に溺れなかったのは本人だけでなく他の多くの者にとっても幸いだった。幻覚については、体験者が「異常」と見られることを危惧するので、口を閉ざす者が多いという。しかし、著者に向けては数百もの人が語る。それは恐ろしい体験を含む「幻」の世界をくぐってきた彼の眼差(まなざ)しのおかげだろうか。そのあたたかさは、本書全体に通じている。

 「聖なる病」と呼ばれた癲癇(てんかん)の中には、恍惚(こうこつ)状態を伴う発作があるという。この前兆も幻覚だ。ドストエフスキーは、この恍惚発作を『カラマーゾフの兄弟』などの中で記している。また、彼は目の前に神が現れる恍惚発作も体験している。恍惚状態や宗教的体験を伴う幻覚があるならば、幻覚が文学や芸術や宗教に影響を及ぼしていることは想像に難くない。幻視と幻聴は、聖書や『イリアス』と『オデュッセイア』でも描かれているという。また、著者は、幻覚ではよく現れる小さい人物が民間伝承の小人(こびと)や妖精を生んだのでは、などと予想する。読者である私も、多様な事例を読みながら「聴覚に問題を抱えていると幻聴を体験しやすいのであれば、聴覚を失った楽聖ベートーヴェンは実際何か聴いていたのかもしれない」など妄想が膨らむ。そして、著者のメッセージから、夢も現(うつつ)も幻も、等しく脳の働きのなせる意識状態だということがわかる。幻覚は現実の知覚や夢と同様に、脳機能の洞察を深める情報源なのだ。

 近しい人を亡くした後に、その姿を見たり声を聞いたりする幻覚の例は多く、死を悼むプロセスとして有益だという。光源氏が幻でも紫の上と会えないようにした作者・紫式部の意図は、と深読みしたくなる。(大田直子訳)
    −−「今週の本棚:内田麻理香・評 『見てしまう人びと−幻覚の脳科学』=オリヴァー・サックス著」、『毎日新聞』2014年11月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141116ddm015070050000c.html






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