病院日記:奪われ続けるナラティヴ
4月に精神科に移動して激増したのが高齢の患者さんの「たわいもない話」を聞くこと(看護師が忙しいから。
ほんと、そこには感動の大団円もなければ、ものすげえ悲惨な話もない。しかし、ひとに聞いてもらえることで「安心」する、自分が自分であることを肯定される安心感つうのはあるのだなあ、と実感する。
そういうやりとりをするなかで、この20年、そういう「たわいもない話」にきちんと「耳を傾ける」文化というのが根絶やしになったのではないかと思う。
まさに創作然とした感動話に受け、「人間だもの」みたいなのに頷く。ボードリヤールの議論ではありませんけど、人間の歴史と言葉が奪われたのではと
周りを見渡せば「永遠の0」、「人間だもの」、そして「水から伝言」みたいな言説ばかり。
感動が悪いとは思わないけれども(疑似科学はやばいけど)、そういう幸福と不幸の両極端にいない人間の「記録されない」声を無視してきた結果が、例えばネトウヨちっくな極端な議論の横行を招いたのではないか。
家庭を顧みない産業戦士という「昭和」、好きよ好き好きみたいな自閉的「平成」、そして「自分が生き残るためにはなりふり構ってはいられない「現在」。ずっーとひとびとのナラティブが奪われ続けているけど、その中でも、この現在つうのはひどすぎるような気がする。
大文字の政治的言説の対抗というものの有用性を否定するつもりは全くありませんけれども、声を奪われ続けること、そしてその代弁なんて不要なこと(そもそもおこがましい)、そういうところに寄り添うことから始めるしかないかな、ということを仕事をするなかで実感しています。