覚え書:「今週の本棚:湯川豊・評 『仮面の商人』=アンリ・トロワイヤ著」、『毎日新聞』2014年11月30日(日)付。

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今週の本棚:湯川豊・評 『仮面の商人』=アンリ・トロワイヤ
毎日新聞 2014年11月30日 東京朝刊
 
 (小学館文庫・616円)

 ◇伝記作家の苦い思い込めた嘘と真実の小説

 ロシア生まれ、フランス育ちのアンリ・トロワイヤが八十歳を過ぎて書いた、短めの長篇の一つ。読めば驚きの連続なのだが、その驚きのうちには、これまた八十歳を過ぎた小笠原豊樹氏の、柔軟でしなやかな翻訳文のみごとさ、ということも入っている。

 小説本体の驚きとはどういうものか。

 次はどうなるのか、と読者を誘いつづける叙述の冴(さ)えが第一にある。それには、登場人物を見る作家の目に、辛辣(しんらつ)さと温かさが同居しているのが、強い支えになっている。人間への視線の届く深さが、小説の構造の奥行きの深さとぴたりと重なっているとでもいうか。

 三部に分けて語られる。まず第一部。売れない本を二冊出版し、三冊目の原稿をかろうじて書きあげた後、二十代半ばで自殺した作家がいた。名はヴァランタン・サラゴス。一九三五年頃の話である。

 ヴァランタンはセーヌ県庁総務部という役所勤めをしながら、上司の目を盗んでは自作のためのノートをとったりしている。隠退した、なじめない父と二人暮らし。結婚して独立している兄が週に一度やってきて、自慢話をし、弟の生き方を批判するのを、ほとんど憎んでいる。

 第一作『なるかみ』を出してくれた出版社主ポレリオのすすめで、ヴァランタンはある夫人の主宰する文学サロンに顔を出し、そこで運命のひとというべきエミリエンヌ・キャリゼ夫人に出会った。エミリエンヌは四十過ぎの美女で、『なるかみ』の真の理解者。夫人が誘いかけて、二人はたちまち愛しあうようになる。ヴァランタンは生まれて初めて、日の当たる場所を得て、恋愛と執筆に熱中するが、第三作『内なる富』をほぼ書きあげたとき、破局がくる。

 エミリエンヌが、意外なことに妊娠したのだ。彼女は、パトロンであるラシュロと結婚し、その庇護(ひご)の下でヴァランタンの子どもを産む決心をする。そしてヴァランタンとはもう二度と会わない、と宣言する。

 打ちのめされたヴァランタンは、コリンヌ・モプーなる気のいいお針子の肉体に溺れたりするが、立ち直れない。最後にエミリエンヌに宛てて真情あふれる手紙を書き、自ら命を断(た)った。

 第二部はそれから五十年以上経(た)った、一九九二年。ヴァランタンの甥(おい)(そう、憎んでいた兄の子)で、当年五十六歳のアドリアンが、叔父の伝記を書いて、文士になろうとするのだ。たまたま出版されたヴァランタンの遺作『内なる富』がなぜかベストセラーになり、それで伝記執筆を思いついた。

 アドリアンの伝記取材は、すべて誤差のなかにある。取材した関係者(たとえばコリンヌ)は年老い、自分こそが主役であるというつごうのいい回想しかしない。そのように誤差にみちた材料によって、叔父の生涯をいいかげんにでっち上げた。若い天才風の偽の肖像が、おかしくも悲しい。しかし校正刷りの段階で、アドリアンはヴァランタンのエミリエンヌに宛てた最後の手紙に出会う(それが短い第三部)。

 それで、伝記はどうなったか。読者に読んでいただきたいから、結果は書かない。

 トロワイヤは、周知のように大帝ピョートルとかバルザックの伝記をものした、大伝記作家でもある。この小説は、伝記のもつ嘘(うそ)と真実をテーマにしたものなのだ。伝記を書きつづけた作家の、ある種の苦い思いもこめられているのだろう。それでも人間にまつわる真実はあるのだ、と老年の作家が穏やかな微笑とともに表明した、仕掛け十分の「伝記」のための小説である。(小笠原豊樹訳)
    −−「今週の本棚:湯川豊・評 『仮面の商人』=アンリ・トロワイヤ著」、『毎日新聞』2014年11月30日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141130ddm015070025000c.html






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