覚え書:「今週の本棚・この3冊:パトリック・モディアノ=野崎歓・選」、『毎日新聞』2014年12月21日(日)付。


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今週の本棚・この3冊:パトリック・モディアノ野崎歓・選
毎日新聞 2014年12月21日 東京朝刊

 <1>八月の日曜日(パトリック・モディアノ著、堀江敏幸訳/水声社/2376円)

 <2>1941年。パリの尋ね人(パトリック・モディアノ著、白井成雄訳/作品社/1944円)

 <3>失われた時のカフェで(パトリック・モディアノ著、平中悠一訳/作品社/2052円)

 モディアノがノーベル賞の有力候補になっているという噂(うわさ)だけで驚いていたのに、実際に受賞してしまったのだからびっくりした。巨大な作家、という印象ではなかった。ひっそりと、地道かつ誠実に小説を書きついできた。その総体がいつの間にか、世界の文学にとって一つのお手本となるような意義を帯びていたのである。

 まずは『八月の日曜日』をひもといて、彼の文体のやわらかい魅力に親しんでいただきたい。難解な文章や、肩に力の入った議論は見当たらない。しかし憂愁の色は濃く、何か取り返しのつかないことが起こってしまったという感覚が、鈍い痛みのようにつきまとう。ひそやかな恐怖が小説の核心に潜んでいる。

 「人生のあの瞬間からだ。私たちが苦悩を、ぼんやりした罪悪感を、そしてはっきりとはわからないけれど、なにかから逃れなければならないという確信を得たのは」

 「はっきりとはわからない」謎は、とりわけ戦時下の出来事と結びついている。作家は人々が忘れようとしていたナチス占領期の暗い淵(ふち)に降りていく。『1941年。パリの尋ね人』では、失踪したユダヤ人少女の記憶に取りつかれ、かすかな手がかりを頼りに街を経めぐる。現代史の闇を手探りで進んでいく探偵としての小説家。その姿は、冥府をさまようオルフェウスにも似通う。

 「もう誰も何も想(おも)い出さないのだろう、私はそう心の中でつぶやいた。(中略)しかし、この記憶喪失の厚い層の下に、時折り何かがはっきり感じられていたのだ。押し殺された遠いこだま(、、、)のようなもの」

 モディアノの描くパリは、過ぎ去った日々のこだまに満ちている。昔日の面影に誘われるがまま、作家はさすらい続ける。

 「男たち、女たち、子どもたち、犬たち。この途切れることのない流れの中で(中略)、人は時おり、ある面(おも)ざしをとりとめたい、と希(ねが)う」

 『失われた時のカフェで』の一文だ。モディアノのパリ小説の到達点をなす作品であり、全編に漂う悲痛な甘美さには、たまらない魅力がある。作者の円熟ここに極まれりといいたくなるが、しかし同時に、モディアノの文章がいつになっても“老けない”ことにも感嘆させられる。両親に半ば捨てられて街をさまよっていた子ども時代の感覚が、モディアノの作品には今なお張りつめているのだ。
    −−「今週の本棚・この3冊:パトリック・モディアノ野崎歓・選」、『毎日新聞』2014年12月21日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141221ddm015070019000c.html


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