覚え書:「第41回大佛次郎賞 評伝『吉田健一』――長谷川郁夫氏」、『朝日新聞』2014年12月20日(土)付。


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第41回大佛次郎賞 評伝『吉田健一』――長谷川郁夫氏
2014年12月20日

(写真キャプション)長谷川郁夫氏=堀内義晃撮影

 優れた散文作品に贈られる大佛次郎賞は、41回目の今年、大阪芸術大学教授の長谷川郁夫さんによる評伝『吉田健一』(新潮社・5400円)に決まった。一般推薦を含めた候補作の公募、予備選考を経て、最終選考で委員5氏が協議した。贈呈式は来年1月28日、東京・内幸町の帝国ホテルで、朝日賞、大佛次郎論壇賞朝日スポーツ賞とともに開かれる。

 ■思い入れを抑制、「大人の文学」

 酒や食の随筆、英国文学の批評や翻訳、幻想味あふれる小説を著した吉田健一。「文壇臭」や「政治臭」が漂わない、日本近代文学のなかで分類不能な文学者の生涯と作品を、端正な筆致で描きつくした。

 執筆の構想は1977年の吉田の没後ほどなく。それまでに自ら起こした出版社の編集者として、7冊の著書の出版に携わっていた。

 「晩年にスター文学者だった吉田さんが、小出版社の編集者をなぜかわいがってくれたのか、不思議でした。あの時間はなんだったのか、正確にたどってみたかったんです」

 言葉通り、2段組み650ページに及ぶ評伝は抑制的な筆致で貫かれている。吉田茂の長男として生まれ、英ケンブリッジに留学、帰国後に河上徹太郎と師弟関係を結び、大岡昇平三島由紀夫らと交遊した文学修業の日々から、随筆と批評と小説が混然とした文学世界を築く晩年まで、多くの文献と作品を引用しながら、実証的に記していく。

 長谷川さんが吉田文学に傾倒したのは、1970年前後の大学時代。学生運動が激しかったころだ。

 「様々な価値観が転倒してアングラ芸術がはやるなか、文壇的に偉い人の書くものに魅力を感じなくなり始めたころ、へんてこな文章がぴたっと入ってきた」

 へんてこな文章、すなわち句読点の極端に少ない文体に至る経緯の検証も大きな執筆テーマだった。青少年期の外国生活が長かった吉田は、どこか日本語能力への負い目を抱え、日本の古典を通じて「言葉のレッスン」を深めていく。遅れてきた文学青年が試行錯誤しながら、晩年になるほど顕著になる独自の文体を身につけ、文士として成熟していく過程は、評伝のハイライトだ。

 この文体について直接たずねた際の描写がある。吉田の答えは「源氏物語に句読点がありますか……」。確かに「源氏」などは句読点は少なくても、音読してみれば意外と素直に言葉が耳に入ってくる。評伝ではそんな文体をひとまず「雅(みやび)の精神」と位置づける。

 しかし、親しくつきあったはずなのに、長谷川さん本人の姿はあくまでも後景にあるのみだ。評伝とは、かくもストイックなものなのか。

 「評伝文学は、筆者が思い入れのある対象を取り上げるだけに、筆が踊ってしまいがちです。根拠のある記述を重ね、抑制を利かせ続けることが難しい。英国では学問好きと文学好きが老後に楽しむ『大人の文学』として定着していますが、日本では、通俗的なモデル小説は書かれても、評伝はなかなか根付かない」

 吉田も日本の文壇の論理の外側で、「大人の文学」を書き続けた人だった。いま、同時代の作家の著作が書店から消えていくなかで、不思議と多くの文庫が棚に並ぶ。

 「酒と女と貧乏で苦労するのが文学といった風潮の日本で、言葉の可能性の限界を模索し続けた吉田文学には時を超える魅力があるということでしょうか」

 大佛賞の第1回授賞もまた中野好夫の評伝『蘆花徳冨健次郎』だった。「昔から、大人の文学を対象にする賞だと思っていたのでうれしい。ただ、『天皇の世紀』は何度か読みかけては読み終えられずにいるので受賞を機会に今度こそ通読します」(野波健祐

 <はせがわ・いくお> 1947年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学部在学中の72年に小澤書店を創立、2000年まで多くの文芸書の出版を手がける。評伝『美酒と革嚢(かくのう) 第一書房長谷川巳之吉』(06年)で芸術選奨文部科学大臣賞。他に『堀口大學 詩は一生の長い道』など。07年から大阪芸術大学教授、芸術学部文芸学科長。

 【選考委員5氏の選評】

 ■文壇から昭和史回顧 宇宙物理学者・池内了

 吉田健一という、尋常ならざる出自と経験と文才を持ち、知る人ぞ知るという存在からいつの間にか押しも押されもせぬ評論家・作家となり、早々と喧騒(けんそう)の娑婆(しゃば)から姿を消したにもかかわらず多くの人に強い印象を残し、今なお若い読者を惹(ひ)きつけている、そんな特異な人物に惚(ほ)れ込んだ男がいた。彼は、吉田健一に関連する言葉が一言でも載っている文章を見かけると丹念に収集し、少しでも関わった人物の言行までも克明に追求して、そこに繰り広げられていたであろう人間関係を明らかにする作業を何十年もかけて行ってきた。

 それを集大成して吉田健一の一代記としてまとめたのが本書で、集めた膨大な資料をしかるべき位置に一つずつ収めていく仕事は実に楽しかったに違いない。読む私も、本書に登場する実に多様な人物それぞれの顔付きを思い浮かべながら、健全な保守主義者としての吉田健一の稀有(けう)な人生を辿(たど)っていくのは楽しいことであった。この作品は文壇から見た昭和史の回顧という趣もあり、大佛次郎賞に相応(ふさわ)しい労作と言える。

 ■文体の謎に迫る卓見 法政大学総長・田中優子

 吉田健一論ではあるが、同時に上質の文壇史でもある。とはいえ、いわゆる狭い文壇の歴史という意味ではなく、かつての伊藤整日本文壇史』のような、時代の物書きたちの生きざまに迫る、という意味での文壇史である。特に吉田健一が評論家としてスタートしたころの交流の様子が目前に見えるようで、その時代、人々が何を文化の価値としていたかが浮かび上がり、当時の知性が夢見た境地と現実の隔たりが生々しく明らかになってくる。吉田健一の文章が、外国語を経て古典の文章を身につけ直した近代人の文章である、というとらえ方も卓見で、なぜ人を酔わせる日本語であるのか、その理由がわかってくる。

 しかし同時に、日本の歴史に深く関わり、今日の政権にまで続いている吉田健一の出自への言及は避けているようだ。避けざるを得ないだろうが、読みながら実際には気になる。つまり、吉田健一の文体とその出自係累の間の深い溝にこそ、日本の戦後史が抱えている文化上の課題があるような気がしてならない。

 ■限りなく執拗な探り 哲学者・鷲田清一

 著者が書きとめた、吉田健一の膨大なことばとふるまいの端々から、同時代の作家や批評家の資質が、あるいはそれらの交錯のなかに漂う時代の空気が、くっきりと浮かび上がる、そうした昭和文壇の一時代史としても、もちろん大いに読みでがある。唸(うな)るほかない発見も数多くある。が、読み進めるなかでつのっていったのは、ひとりの作家の日々の行状を、語らいを、つきあいを、ここまで細部にわたり探り、書きとめようとする、そのこだわりがどこから来るのかということだった。

 人と呑(の)むことをこよなく愛し、ケケケと奇声を発しながら、しかしついにだれともつるまず、群れることもなかった吉田健一の、その徹底した「自由人」としてのふるまい、ないしはその「精神の均衡」(大人であること)への問いかけと、彼の鋭利な感受性や判断の腐葉土ともいうべき「教養」の来し方への探りとが、限りなく丹念に、そして執拗(しつよう)になされている。650ページを超える大作でありながら、断片のいずれもがじつに味わい深い。

 ■適確な引用の集積 作家・佐伯一麦

 評伝の大著である。批評家、エッセイスト、小説家が渾然(こんぜん)一体となった文学者吉田健一をめぐる伝記的事実が、文献を渉猟し徹底的に読み込んだことが窺(うかが)われる適確な引用によって次々と繰り出され、まさに巻措(お)く能(あた)わざるの一冊である。食と酒、旅を愛した半面、執筆には几帳面(きちょうめん)だった吉田健一の人となりを、選び抜かれたエピソード(ゴシップも含めて)の集積によってあらわすという方法が、自(おの)ずから昭和初年から戦後にかけての“吉田健一とその時代”を文学史的に浮かび上がらせてもいる。吉田健一が戦争体験の重さを吐露する箇所など、戦争を知らない世代が多数となったいま、謙虚に踏まえられるべき貴重な証言であろう。

 「文学は言葉だけで築かれた世界である」という著者は、その言葉を活(い)かすための造本についても詳細に記す。出版人、編集者でもあった著者の手で世に出すことが叶(かな)わなかった定本としての吉田健一全集にかわって、言葉に全身で仕え生命を吹き込んだ文学者の評伝の決定版が差し出されたようにも感じられた。

 ■文士の一生を活写 本社元主筆船橋洋一

 「蝶(ちょう)気違ひの文士が崖に蝶を追つて墜落死することもある」

 吉田健一は、三島由紀夫の割腹自殺をそんな風に評した。逆説とアフォリズムとユーモアを武器に彼は、詩、随筆、小説のすべてにおいて「批評的言語」の可能性に挑戦した。

 英ケンブリッジ大学に学んだ青年は、帰国して文士になることを決意する。英語人の「失語症の青年」は、「句読点の打ち方が解(わか)らなければ文章は書けないことを知」る。日本の古典に沈潜することで「随筆で啖呵(たんか)を切る味を覚えて、やつと評論でも啖呵が切れるやうになつ」ていく。

 戦前と戦後と、吉田健一の思想の軸はぶれない。彼は、イデオロギーですべてを「割り切る人間」を「未開人」として退けた。自由と伝統、いや古典に湛(たた)えられる、そして時にその間の荒磯に湧き上がる知の豊饒(ほうじょう)を、パンタグリュエルのように鯨飲した。

 文士の一生を、息づかいもろとも活写している。編集者ならではの舞台裏も場外乱闘も織り交ぜながら評伝の醍醐味(だいごみ)。
    −−「第41回大佛次郎賞 評伝『吉田健一』――長谷川郁夫氏」、『朝日新聞』2014年12月20日(土)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11516262.html










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