覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『イシュア記−新約聖書物語』=小川国夫・著」、『毎日新聞』2014年12月28日(日)付。

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今週の本棚:村上陽一郎・評 『イシュア記−新約聖書物語』=小川国夫・著
毎日新聞 2014年12月28日 東京朝刊

 (ぷねうま舎・6048円)

 ◇『ヨレハ記』に並ぶキリスト教文学の金字塔に

 「発作は、あいつの体のもっと深くにこびりついている汚鬼(おき)で、どうにもならない」と友に言わせる、一文無しで、できものに悩む青年、それがイシュアである。激しい発作に、友は、しかと判(わか)らない力に助けられて介抱する。やがて静寂が訪れる。蘇(よみがえ)ったかのようなイシュアは「静かに私の名を呼び、同じように静かにいった。−−俺は神殿へ連れて行かれた。壇の上へ乗せられ殺されたさ。殺されていたのに、自分の血が流れるのが見え、(略)壇の上から声がした。あなたはだれですか、とゼロイ(預言者の一人)がいうと、その声はいった。お前たちが呼ぶものだ、我はこの血をよろこび、わが子の血を忘れないだろう」。

 これは本書の第一の書である「イシュア前記」の冒頭の一節である。病もちの、弱弱しい一人の青年が、そのあとみるみるうちに変貌し、教えを説き始め、共鳴する人々を増やしていく。聖書に伝えられるイエスの言行録から、詩人である著者は、人間の痛みや苦しみや、折に触れてのちょっとした喜びはもとより、まるで色も、匂いも、手触りまで感じさせるような、生々しい人々の「生」の現場を紡ぎだす。キトーラ(物語の中心となる町)第一の金持ちが、すべての財産を処理して、イシュアに従う場面も、詩人は次のように語る。「<黄金と神とにかね仕えることはできない>ということがあるな。イシュアがよくいう文句だ。不思議な文句だ、とわしは思っていたし、若僧、何を一人で考えているのか、と思ったりはした。だが、矢張りわしは負けた。わしは、あいつが半ば狂って、解(わか)ってもいないことを口走っていると思っていたが、それどころか……」

 こうして、イシュアに関わる友、老人、女など、記述の本人は、次々に入れ替わりながら、新約聖書に織り込まれている様々なエピソードに触発された詩人の魂は、奔放な想像力(創造力)によって、イエスの身に起こったこと、いやむしろ、彼に関わる一人一人に起こったことを再現する。

 次に置かれた書では、イエスは「あの人」と表現されている。二百ページを超える大部なもので、通常の書物よりかなり厚めの本書においても、中心となる部分だが、ここではユニアと名付けられた男とその姉のフィロメナを中心として、「あの人」が描かれる。「あの人」は苦しむ人々を癒しながら、言う。「私は神に拠(よ)って人々を唆す者だ。司祭たちが神から離れ、権力のために眼を血走らせているからだ」。こうした激しい言葉にも、ここでは文字通り血が通っている思いに撃たれる。

 実は、本来発表された順序から言うと、「あの人」(原題は「或(あ)る聖書」)が一九七三年で、「イシュア前記」は一九七六年だから、本書での順番は逆転している。さらに本書では「あの人」の次に置かれている「ユニア」は一九六八年、次の「ユニアの旅」はより遡(さかのぼ)って一九五七年が初出の作品である。つまり、本書の構成は、作品の発表された時代から見れば、ちょうど逆の順番になっていると言える。

 解説の勝呂奏(すぐろすすむ)氏によれば、小川は、ユニアという題材を得たことで、最終的に、新約聖書に関する一貫した作品を書くだけの展望を得た、という。小川自身、新約聖書に触発されてはいるものの、完全な「フィクション」創作への道が拓(ひら)かれたと言う。旧約聖書からのフィクションである『ヨレハ記』と並んで、本書は日本におけるキリスト教文学の金字塔になるだろう。
    −−「今週の本棚:村上陽一郎・評 『イシュア記−新約聖書物語』=小川国夫・著」、『毎日新聞』2014年12月28日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141228ddm015070027000c.html










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イシュア記: 新約聖書物語
小川 国夫
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