覚え書:「今週の本棚:辻原登・評 『生と死をめぐる断想』=岸本葉子・著」、『毎日新聞』2014年12月28日(日)付。

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今週の本棚:辻原登・評 『生と死をめぐる断想』=岸本葉子・著
毎日新聞 2014年12月28日 東京朝刊

 (中央公論新社・1620円)

 ◇孤独に耐え「魂の行方」に思い馳せる

 病魔は、われわれの人生の途上でこころとからだを引き離す最大の出来事だが、同時に、それが切り離しえないものであることを知るのもこの試練によってだ。

 著者は四十歳で癌(がん)という病を得て、大きな手術をした。発見から検査入院、手術、退院、予後にわたる日々を『がんから始まる』で綴(つづ)って十年余りがたった。そこに書き留められていた幾つもの文章がいまも強く記憶に刻まれている。

 「病気になるのに、生き方は関係ない。でも、なってからは、生き方はおおいに関係ありそうだ」「死そのものを、ではなく、死に対し脅(おび)えることしかできないという状況を、克服したいのだ」

 前著は切実な体験記だったといえる。そして、長い予後の「時」の中で、著者は「死」についての思索を徐々に深めてゆく。その間に東日本大震災があった。「わたし」の生と死がもっと大きなもの、「わたしたち」の生と死の問題へと移行してゆく。著者は重要なことを書きつける。

 病を得て人は生死のことに感じやすくなるというストーリーに沿った文章上のふるまいをしているだけではないか。

 常にこの問いに裏打ちされているため、著者の断想は「わたし」一個の死をめぐるのではなく、すべての人々に開かれた叡知(えいち)の表現となっている。

 私の中に二人の違う人がいる。認識する人、祈る人。

 そうなのだ、この本は、認識と祈りが両輪のようになって、様々な宗教と宗教者、心理学と心理学者、哲学と哲学者、民俗学民俗学者、漢方と漢方医と、その著作を通して粘り強く対話をつづけ、「死」を自然と歴史と宇宙の中に置き直す、いや、解き放つ。すると「死」はくるっと「生(いのち)」へと転換する。「わたし」を超えた何かもっと全体的な「いのち」があり、「わたし」が「いのち」にいっとき宿る。「わたし」が死んでも「いのち」はつづいてゆく。祈りはこの「いのち」から出て、「いのち」に還ってゆく言葉なのだ、と。

 しかし、「わたし」が生きてあるかぎり、認識と祈りは溶け合うことはない。宗教に帰依すればこの問題は解決するのだろうが、著者は踏ん張る。末尾の断想に至って、著者は、

「さて其(その)よみの国は、きたなくあしき所に候へども、死ぬれば必ズゆかねばならぬこと候故に、此世(このよ)に死ぬる程悲しきこと候はぬ也」

 という本居宣長の「安心(あんじん)」論の一文に出会い、そこから「悲しむ者」としての個を受け入れようと考える。「救い」よりも「悲しみ」に、死へと向かって歩む個の拠(よ)りどころを見出(みいだ)すのだ。

 大いなる自然に従い、大いなる「いのち」に任せることに、最終的にはなるのだろうと予測し、受け入れ、ときに安らぎすら見いだしながら、「わたし」でもまたあり続ける。偽りない自分の姿がそこにある。

 共同体としての死後の魂の行方が定まった時、文明が始まった。魂の行方を失って久しい現代のわれわれは、みなたった一人で、孤独に耐えてそのことに思いを馳(は)せねばならない。この本はその果敢な冒険の秀(すぐ)れた一例である。本書を閉じたあと、私は本当に久しぶりに人類最後の哲学者ジャンケレヴィッチ(一九〇三−一九八五)の大著『死』を繙(ひもと)いている。
    ーー「今週の本棚:辻原登・評 『生と死をめぐる断想』=岸本葉子・著」、『毎日新聞』2014年12月28日(日)付。

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