覚え書:「今週の本棚:小島ゆかり・評 『森女と一休』=町田宗鳳・著」、『毎日新聞』2015年01月25日(日)付。

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今週の本棚:小島ゆかり・評 『森女と一休』=町田宗鳳・著
毎日新聞 2015年01月25日 東京朝刊
 
 (講談社・1944円)

 ◇俗塵のなかで汚れきる

 臨済宗大徳寺派大本山大徳寺四十八世・一休宗純禅師。禅宗の腐敗に抗(あらが)い、多くの奇行ゆえに数々の伝説を生み出した風狂の僧である。子どもたちにおなじみの頓智(とんち)の「一休さん」は、禅師の説話をもとにした『一休咄(ばなし)』による。一休禅師とははたして、どのような人物だったのか。彼はなにをめざし、どう生きたのか。波乱と謎に満ちたその一代奇譚(きたん)を、晩年をともに暮らした盲目の女琵琶師・森女(しんじょ)の問わず語りとして描いた、評伝小説である。

 「−−北朝の帝と南朝の母の間に生まれ落ちた自分は、いったい何者なのだ」。人間一休の苦難の精神史の源には、この問いが鋭く刻まれていた。

 父は、南北朝の統一後最初の天皇となった北朝後小松天皇。母は後醍醐天皇を奉じて南朝を立てた楠正成(くすのきまさしげ)の孫・正澄(まさずみ)の娘・伊予局(いよのつぼね)照子。不穏な出自であり、はじめから、闇深い室町時代をその身に背負うような運命であった。幼名・千菊丸(せんぎくまる)は、六歳ですでに母のもとを離れて仏門に入ることを余儀なくされる。

 その後の、厳しい修行と大胆な逆行との混沌(こんとん)とした歳月が、淡々と、しかし彫り深く語られる。抑揚を控えつつ、それでいて温かみを帯びた寂しい韻律をもつ語りの文章は、森女その人の肉声の息遣いを感じさせて快い。

 経典のエッセンスや、禅独特の公案(こうあん)について、著者は宗教学者としての知識と小説家としての場面展開を駆使して、じつに自然に一つのものとして伝えている。公案とは、先人の言行にまつわる難問を思考することを通して、とらわれの世界から脱却し悟りの世界に入る、禅の修行である。

 たとえば、僧名・周建から宗純となり、峻厳(しゅんげん)この上もなき華叟(かそう)老師からの最後の公案「薬山保任(やくさんほうにん)」にとりくむ場面。公案の主題は「戒定慧(かいじょうえ)が閑家具(かんかぐ)」。すなわち、戒律と禅定(ぜんじょう)と智慧がガラクタ同然であると。苦しい座禅を繰り返しつつ半年後のある寒夜、月光の庭にいきなり大音響がした瞬間、これを理解する。一切がそのままで戒定慧を成就していると。

 あの月光に照らされた庭石の上に、燃え立つように赤い寒椿(かんつばき)が一輪落ちているではありませんか。(中略)椿一輪が石の上に落ちても、深い禅定に入っていたお体に、とてつもない大きな響きとなって伝わっていたのです。おもむろに坐(ざ)を解き、庭に出て、石上の寒椿を手に取られました。手のひらにあるそれが、どこまでも愛(いと)おしく思えたのです。(「仏界入(い)り易(やす)し」)

 華叟老師との別れの際、即今の境涯を聞かせよと言われて応えたのが、「有漏(うろ)(煩悩)路(じ)より 無漏(むろ)(菩提(ぼだい))路(じ)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け!」。これにより、一休と名乗る。

 大導師となるためには、俗塵(ぞくじん)のなかで汚れきれと老師に教えられた一休の、破天荒な逆行三昧(ざんまい)もまたここから始まる。生地であり大本山大徳寺のある京の都、琵琶湖のほとり堅田(かたた)、淀川を下って堺、京と堺の半ば薪村(たきぎむら)。その生涯の足跡はいまだ明らかではないという。

 そして七十七歳、摂津の住吉にて、森女との運命的な出会いを果たす。「私はどれだけ禅師さまに抱かれようとも、貪(むさぼ)りではなく、いつも慈しみの愛だけを感じておりました」(「魔界入り難し」)。煩悩がそのまま菩提なること。この世の光を喪(うしな)った盲目の女琵琶師こそが、風狂の禅師の光となった。森女により安心立命(あんじんりゅうみょう)の境地を見出(みいだ)し、応仁の乱の後の大徳寺再建に尽くした禅師の最後の言葉は、「死にとうない……」。一休禅師八十八歳。
    −−「今週の本棚:小島ゆかり・評 『森女と一休』=町田宗鳳・著」、『毎日新聞』2015年01月25日(日)付。

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