覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『鶴見俊輔全詩集』=鶴見俊輔・著」、『毎日新聞』2015年02月22日(日)付。

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今週の本棚:荒川洋治・評 『鶴見俊輔全詩集』=鶴見俊輔・著
毎日新聞 2015年02月22日 東京朝刊

 (編集グループSURE・3672円)

 ◇思考から生まれる世界

 哲学者、鶴見俊輔(一九二二年生まれ)のすべての詩、五一編を収める。八〇歳のときの第一詩集『もうろくの春』(二〇〇三)と「その他の詩」で構成。いくつかの訳詩もある。

 著者は比較的早くから詩を書いた。「らくだの葬式」は一九五四年。「らくだの馬さんが/なくなって/くず屋の背なかに/おぶわせられた」で始まる短詩。以降、六〇年間で五〇編。一年一編のペースだ。哲学・思想の著作で日本をリードする人が心をやすめるため、書きとめる。表向きはその範囲だ。

 こんな詩もある。「ひとつの孤をとおり/風をくぐってきたそれは/すこしやせてひきしまる」(「ブーメランのように」)。「おれは自分から自由になり/静かに薄れてゆく」(「自由はゆっくりと来る」)。猿飛佐助、霧隠才蔵が登場する「忍術はめずらしくなくなった」は、「ここをはなれては/われらは たがいに知らず/私は私に/会う時もない」。楽しくて深みがある。改行の呼吸もすばらしい。

 小説などの散文は、伝えるためのことば。詩は伝達ではなく個人の感じたものを「そのときのことば」で書き表す。散文は近代社会の発展に応じてつくられた、人工的なものだ。人や社会と通じるため、自分の知覚を抑えて書くので、ほんとうは人にとって不自然。個人を振り落とす怖(おそ)れがある。散文は異常なものである、という見方もできるかと思う。

 いっぽう詩は一般性がないので、うとまれるけれど、個人の痕跡を濃厚にとどめる。散文も詩もだいじだが、散文の支配を受けすぎると、意味以外のものを読みとれなくなる。心は硬くなり、思考も単調に。いまの日本は散文の完全な支配下にある。

 鶴見俊輔が『もうろくの春』を出す前後、各界第一線の人たちが七〇歳あるいは七五歳を過ぎた時点で、実質的な「第一詩集」を刊行した。石牟礼道子篠沢秀夫平岡敏夫多田富雄ら。ある年齢になって、かたちにとらわれない詩という形式を選んだのだ。詩のことばの可能性を見つめる。『もうろくの春』は、その起点となった。近年は辺見庸町田康川上未映子など詩と小説どちらにも重点をおく新しい書き手が現れ、すぐれた詩を書く。どの世代にも詩のことばが以前より少しだけ身近になったのだろう。だが鶴見俊輔の詩は特別である。思考を書く。のびのびと書く。

 「まちがいは どこへ行くか/遠くはるかに/世界をこえて/とびちってゆく」(「まちがいはどこへゆくか」)。別の詩では、「ひとつの眞理の主張は/まちがいの/バックコーラスに/ささえられている」と書く。「まちがい」をする前から「まちがい」を思う。そんな空気もある。他の人には書けない詩だ。「私のいるところには、今の私しか立てない。この場所を見知らぬ誰かにゆずって去るという決断をすることはできるが」は、二〇〇七年発表の詩の一節。

 考えたことをそのまま書いているように見えるが、動きのある、美しい詩である。普通、詩を書きなれない人は、詩の形式を意識しすぎて無理のある言語に手を染め、平凡な詩を書くことになる。詩論を書く人の詩も極端にロマンチックになり、不自然。多くの人が同じところにおちいる。鶴見俊輔はその点でも非凡だ。自然である。

 詩を書くときの、あらたまった姿勢はない。あくまでいつもの文章と思考をもとにする。そこに著者の詩の輝きがある。編集グループSURE(電話〇七五−七六一−二三九一)より刊行。直接販売。
    −−「今週の本棚:荒川洋治・評 『鶴見俊輔全詩集』=鶴見俊輔・著」、『毎日新聞』2015年02月22日(日)付。

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