覚え書:「今週の本棚:鹿島茂・評 『民俗学・台湾・国際連盟−柳田國男と新渡戸稲造』=佐谷眞木人・著」、『毎日新聞』2015年03月08日(日)付。

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今週の本棚:鹿島茂・評 『民俗学・台湾・国際連盟柳田國男新渡戸稲造』=佐谷眞木人・著

毎日新聞 2015年03月08日 東京朝刊


 (講談社選書メチエ・1674円)
 ◇「植民地の経営」が重要な媒介項に

 『武士道』の著者である新渡戸稲造民俗学の開祖・柳田國男

 この二人の関係については、国際連盟事務次長・新渡戸稲造の推輓(すいばん)で連盟委任統治委員となった柳田が期待を裏切って二年余りで辞任・帰国したため、以後は疎遠になったことが知られているくらいで、研究者もあまり注目してこなかった。しかし、著者は柳田民俗学誕生の原点が新渡戸との出会いにあったと睨(にら)んで、「この二人が強い関心をもち、とくに新渡戸が深くかかわった、日本による植民地台湾の経営という問題」を浮上させようと試みる。

 だが、なにゆえに「植民地台湾の経営」が重要な媒介項となりうるのか?

 それは、日清戦争で台湾の領有権を得た日本が同化主義(内地延長主義)で行くか、分離主義(特別統治主義)で行くか迷ったあげく、児玉源太郎総督・後藤新平民政長官のもとで後者を採用して、後藤が「臨時台湾旧慣調査会」を組織したことに始まる。すなわち、ドイツで公衆衛生学を学んだ後藤は台湾人の生活を徹底調査し、それに基づいて植民地経営を行う方針を立てたが、そのとき殖産政策の提言を求めたのが『武士道』を書き上げたばかりの新渡戸。新渡戸は後藤の期待に応えて『糖業改良意見書』を提出し、台湾に精糖業を根付かせることに成功し、離台後は、一九〇六年から東京帝国大学教授となり植民地政策学の講座を担当した。その授業内容は「台湾人が日本の文化に同化するだけでなく、日本人もまた台湾の文化を学び、それに同化しないといけない」という文化相対主義で、台湾独立を視野に入れたものだった。

 この新渡戸が一九〇七年に報徳会例会で行った講演「地方(じかた)の研究」を聞いて強い感銘を受けた青年がいた。内務省の少壮官僚・柳田國男である。柳田は、地方の振興には、科学的な方法に基づいた調査活動が必要だという講演内容に共鳴し、天狗(てんぐ)や神隠しに対する個人的な興味と農政学を結びつける道筋を見いだしたと思ったのである。柳田は翌一九〇八年に九州・四国地方を旅したとき、これを実践するかたちで宮崎県椎葉村の村民の聞き取り調査を行い、翌年『後狩詞記(のちのかりことばのき)』として纏(まと)め私家版で上梓(じょうし)し、その翌年には同じく私家版で代表作『遠野物語』を世に問うた。さらに柳田は新渡戸に師事して、同年から新渡戸を世話役、自らを幹事役として、研究会「郷土会」を組織し、後の民俗学の中核となるようなメンバーを集めることに成功した。

 「新渡戸の報徳会における講演『地方の研究』によって、台湾と日本を類比的に見るという示唆を受けた柳田は、『郷土会』とはまったく異なる方向へと想像力を働かせてもいた。それは、台湾の『生蕃(せいばん)』と同じような先住民が日本にもいた、あるいは現在もいるのではないか、という想像である」

 こうして、柳田民俗学は新渡戸の台湾学を媒介にして成立するのだが、この蜜月は、冒頭で述べたように、柳田が国際連盟委任統治委員となりながら、短期で辞任し帰国したことで終わりを告げる。原因は会話能力の不足と英仏主導の委任統治への反発があったようだが、しかし、柳田のこの体験は西欧の新しいエスノロジーに触れて「一国民俗学」を創始するのにおおいに役だつことになるのである。

 国内では地方再生が叫ばれ、国外では植民地統治の裏返しである移民受け入れが大きな問題になっている今日、非常に示唆に富む一冊である。
    −−「今週の本棚:鹿島茂・評 『民俗学・台湾・国際連盟柳田國男新渡戸稲造』=佐谷眞木人・著」、『毎日新聞』2015年03月08日(日)付。

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