覚え書:「今週の本棚:高樹のぶ子・評 『冷海深情−シャマン・ラポガンの海洋文学<1>』『空の目−シャマン・ラポガンの海洋文学<2>』=シャマン・ラポガン著」、『毎日新聞』2015年03月15日(日)付。

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今週の本棚:高樹のぶ子・評 『冷海深情−シャマン・ラポガンの海洋文学<1>』『空の目−シャマン・ラポガンの海洋文学<2>』=シャマン・ラポガン著
毎日新聞 2015年03月15日 東京朝刊
 
 ◆『冷海深情−シャマン・ラポガンの海洋文学<1>』=シャマン・ラポガン著

 ◆『空の目−シャマン・ラポガンの海洋文学<2>』=シャマン・ラポガン著

 (草風館・各2700円)

 ◇日本の心性呼び覚ます台湾の小島の知性

 シャマン・ラポガンは、台湾の南東に浮かぶ小島蘭嶼(ランユイ)島に暮らし、少数民族タオ族の作家として世界に向かって書き続けている。英語圏でも日本でも翻訳本が出ている台湾屈指の作家と言ってよいだろう。

 彼は島を出て台北で学んだのち、タオ族の伝統と文化への使命感に目覚め、蘭嶼島に戻って創作を始めた。海で生きるタオ族の生活や人生をみずみずしく描き出し、彼らの死生観や少数民族ゆえの軋轢(あつれき)や混乱、自然から与えられる至福と、避けて通れない悲劇を、タオ族の物語にする。この二冊に収められた中編や短編は、その集大成だと言ってもいい。

 作品は直接タオ族の主張を提示するのではなく、彼らの喜怒哀楽を淡々と記述することで、結果として文明社会に新鮮な発見をもたらす。ここにこうして生きている人間が居る、ただそれだけの実感が、読む人間を謙虚に覚醒させる。小説の本来の力がここにある。人類が幸福追求の方向として、何の疑いもなく突き進んできた文明が、読み終わったあと胸の底に澱(おり)のようにわだかまっているのを発見する。文明社会の中でしか生きられない自分を、致し方ないと認めることに激しい逡巡(しゅんじゅん)が生まれる。致し方ないのは解(わか)っているが、それが苦しくなる。

 こうした効果は、文明の中にいて文明批判をする立場からは生まれない。世界の構造で考えれば外れの外れである蘭嶼島に戻り、その場所でラポガンが書くことは大きい。マイノリティが棲(す)む蘭嶼島の向こうには、政治的にも文化的にも圧倒的な台湾が存在し、その台湾はさらに巨大な中国大陸と対峙(たいじ)している。琉球弧からの視点でヤポネシア(日本)を視(み)た島尾敏雄を思い出す。結局、文明について説得力ある考えを伝えるには、一旦文明の外に出なくてはならないのか。

 しかし世界の果てからの遠望と俯瞰(ふかん)を文学にするには、その視点獲得と同時に、世界へ発信可能な北京語を会得しなくてはならなかったし、出版という流通システムも知らなくてはならなかった。蘭嶼島から出て学び、タオ族の民として戻ってくることで、ようやく彼の文学は成立したのである。


 作家の立場と経歴に触れたのは、数年前に私は蘭嶼島に渡り、ラポガンの案内で一週間かけて彼の文学世界を見させてもらったからだ。そのときの発見と感動が、作品を読むうちに大波のように再来した。

 海と潜水漁を愛する男の、家族との確執や、海から与えられる喜びを書いた「怨(うら)みもせず悔いることもなく」には、作者自身が素直に顕(あらわ)れている。登場人物の男はシャマンと呼ばれているが、シャマンは「子供の父」という意味で、タオ族独自の呼称だ。男も女も親になった時点で父親はシャマン、母親はシナンとなる。孫が産まれれば男ならシャプンとなる。従って作者の名前は「ラポガンの父」という意味で、やがて孫ができれば、「シャマン・ラポガン」は「シャプン・(孫の名)」と変わる。新しい命を中心に年長者の名前が付けられ変えられるのは、この島で生命がいかに言祝(ことほ)がれているかの証しだ。幼く弱い命を大人たちが悪霊(アニト)から守るためだとも聞いた。

 また、この短編だけでなく彼の作品の随所に描かれている魚の食べ方だが、男が食べる魚、女の魚、子供、年寄り、妊婦が食べる魚の種類が厳密に分けられている。一般的には労働する男が最も美味で高栄養価の食料を食べる資格があると思われているが、女や子供、妊婦、老人にこそ、まず食べやすい魚が与えられる。

 種類と用途が明確にされているのは魚に限らず、森の樹木も使用目的により種類が決められている。木を切るときは「あなたを殺すが、あなたはタタラ(トビウオ漁用の舟)に生まれ変わる」と語りかけ許しを請う。樹木にも魚にも「人格」があり、人間と対等に扱われる。釣り上げられるロウニンアジもトビウオも意思をもち、天空の星は「空の目」として海に出た男たちの相棒になる。多神教世界のやわやわとした美しさが、グローバリズムの合理性を圧倒する場面が小説の随所に見られ、それは懐かしい日本の心性をも呼び覚ます。

 経済効率だけで狩猟漁労を行えば一種類の魚や樹木が採り尽くされてしまうだろう。だがここには他者を侵略せずに小さく生きていくためのタオ流知性がある。それはまた、いま世界が求めている答えでもある。

 タオの創世神話では、男女はそれぞれ左右の膝から生まれたそうだ。土地が狭い島では、死者は母親の胎内にいたときと同じ格好、つまり両膝を抱えるように小さく丸まって、最小限度のスペースに埋葬されたので、人が膝から生まれるのもごく自然な転生再生を思わせる。

 この島で起きることは、困難も無理解も悲劇も、書かれるはじから「詩」になる。文字で表記されているのに、タオの老人たちが薄鼠(うすねずみ)色の風に乗せて朗唱しているように聞こえてくるのは、それが私たちの中にもかつて存在した風景だからだろう。(<1>魚住悦子<2>下村作次郎訳)
    −−「今週の本棚:高樹のぶ子・評 『冷海深情−シャマン・ラポガンの海洋文学<1>』『空の目−シャマン・ラポガンの海洋文学<2>』=シャマン・ラポガン著」、『毎日新聞』2015年03月15日(日)付。

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