覚え書:「今週の本棚:橋爪大三郎・評 『電車道』=磯崎憲一郎・著」、『毎日新聞』2015年03月22日(日)付。

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今週の本棚:橋爪大三郎・評 『電車道』=磯崎憲一郎・著
毎日新聞 2015年03月22日 東京朝刊
 
 (新潮社・1728円)

 ◇時空駆けるドローンが描くパノラマ

 《これ以上の人生の浪費はもはや一日たりとも許されない、男はその夜のうちに家を出た。》と始まる本書は、切迫した時間が音をたてて流れる風洞のようである。段落が少なく、活字がしばしば見開き二ページをびっしり埋める。人びとは急(せ)かされたように移動し、出来事はつぎつぎ唐突に起こり、因果関係はたどれるが、説明はない。行為の外形が描かれ、内面も点描されるのだが、その描写が人びとや出来事を置き去りにするスピードでひたすら持続する。私小説と対極の、有無を言わせない客観性がそこに現れる。見たことのない文体である。

 この文体は、ドローン(無人飛行機)を思わせる。鉄道も通らない明治の昔の田舎から、東京郊外の農村にもちあがる鉄道の建設話、大震災、空襲をへて昭和平成のベッドタウンの日常まで。その時間の流れそのものを俯瞰(ふかん)するように低空で飛翔(ひしょう)する機体は、人びとの人生をみるみる追い越していく。家族を棄(す)て田舎を出奔し、高台の駅の近くの私立学校の校長に収まった男と、行き当たりばったりの果てに電鉄会社の社長になってしまった男。この二人が主人公らしいが、名前さえわからない。地名など固有名も、あらかた省かれている。すべてを不特定の誰か、ありそうなどこかとして描く。直近からの目線なのに距離感が極大な特徴的な文章が、通常の小説ではありえない長大なパノラマを繰り広げる。

 こんなパノラマ描写がどうして可能か。ドローンは「無人偵察機。作者の操縦するまま、時空のなかを駆けめぐる。互いに関連のない人びとや出来事でも、ひとつながりの視野に収められる。この小説でしか作り出せない、異次元の体験だ。

 このような体験は、切なくも哀(かな)しい。子どもはたちまち大人に、大人は過去を悔いる老人になる。見知った場所に知らない人びとが住み着き、大切だったものは壊れていく。そして誰もが、主人公さえも、あっけなく死んでいく。人びとに、大切だったはずのものは何なのか。かけがえのない意味、帰るべき場所はどこにあるのか。その根底の真実に届こうとすれば、ふつうの小説のサイズ、特定の誰かの意識の広がりでは、小さすぎて無理である。だから、特定の誰かの意識を離脱したドローンが、描写の起点であるべきだ。それが、作者の直感だろう。

 鉄道が海の向こうからやって来た。盛り土をし線路を敷き、通した電車は一○○年経(た)ってもまだ走っている。鉄道は、日本の近代化の象徴だ。多くの人びとを運び、近郊には住宅地が広がり、それが当たり前の風景となった。持続するこの仕組みは世界の確かな構成要素のひとつではないのか。それを小説という言葉の仕組みに捕らえなければ、近代を描いたことにならないではないか。『電車道(でんしゃみち)』が鉄道を取り上げるのは、そうした意図からに違いない。

 時間とともにすべては変化し移ろいゆく。ではすべては、虚(むな)しいのか。この小説の印象は、その反対だ。つぎの瞬間になくなるかもしれなくても、どの瞬間にも確かな出来事が起きている。それを時間は、なかったことにするわけにはいかない。その確かなひとつひとつを、証言することができれば。ドローンのように上空から近接して、出来事を写し取るこの文体は、過ぎ去ることでは滅びない人間の営みの確かさを、より確かにするために工夫されたと思う。

 この工夫が小説として成功しているのかどうか、私にはわからない。言えるのは、この作品が、ふつうの小説であることを止(や)める意思によって、成立していることだ。それは革命的な、果敢な試みである。
    −−「今週の本棚:橋爪大三郎・評 『電車道』=磯崎憲一郎・著」、『毎日新聞』2015年03月22日(日)付。

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