日記:日蓮仏教系は八紘一宇国会発言に関して真摯に批判すべき
八紘一宇に関しては、日蓮仏教の人間は真摯に批判すべきだと思います。ご存じの通り八紘一宇の造語は田中智学に由来します。侵略戦争のスローガンとして実際に機能し、問題のある用語です。三原じゅん子代議士は、その経緯は「知っている」としながらも、もともとの意味は良い意味だったと、曽野綾子さんのように居直りを決め込む始末。何が居直りかといえば、「もともとの意味」自体にも積極的に「いい意味」なんてない話です。
要するに、天皇を頂点に起き、日本民族……単一民族という観念こそ神話なのですけど、それは横に置く……を世界各国の人々の最上部に起き、ピラミッドのように「序列」化した秩序でもってして、世界のすべてのひとびとの父であるが如き天皇の深慮によって仲良きをやっていくという唾棄すべき父権主義。神話にまみれた生-権力に他なりませんよ。
ゆっくり考えてみてください。日本人であるアナタが、天皇を頂点に起き、その赤子として父をあがめ、その深慮に従うという神話を好むこと自体は否定しませんよ。しかし、それは信じていない人間やよその文化の人にとっては、カテゴリーは交差しませんし、おせっかい以上の異常な全体への回収ですよ。アメリカのひとでも、中国のひとでも、だれも自分の父が天皇だなんておもってやいませんよ。
で……。
国柱会系の軍人や大陸浪人は、戦前の中国大陸において、日本軍が進出する前に、僧侶風の風体で南無妙法蓮華経の太鼓を叩きながら、軍に先んじて侵略先を内偵しておりました。その後、軍が進出する。中国大陸の人にとって、南無妙法蓮華経とはいわば「侵略」のシグナルな訳ですよね。
そういうものを例えば、日中国交回復宣言を一つの頂点としますが、戦後の創価学会の平和運動やらその精神を政治の世界で展開しようとした公明党ですよね。
いわば戦前の日蓮主義とは違う、ひとりの人間を大切にする日蓮という魂に再び火を入れた訳ですよね。
そういうことに無頓着になってしまい、はっきりいえば、創価学会、公明党の識者・議員とよばれるエリート層が、「まあ、三原議員だからしかたないよね」「八紘一宇なんて知りませんがな」というのではどうかと思いますという話。
なにが「まあ、許容範囲」ですか。「無言」を決め込んでみっともない。
そういう体質、すなわち、ずるずるべったりがそうしたクラスタのマジョリティであるとすれば、これは蒙古来襲を告げた使節団を無惨にも切り捨てた鎌倉幕府のむちゃぶりに、日蓮は、殺された使節団の人間に「かわいそうなことだ」と哀悼をしめしておりますが、どんだけ、その精神から遠ざかり、国民国家の重力に回収されているのや、という話ですがな。
そして付け加えるならば、平和だの人権だの福祉だの(平和、教育、文化でもいいですが)といった人類が長い時間をかけて獲得してきた、ア・ポステオリな文化横断的な価値には、実際のところ全く、関心をよせていなかったと判断されても否定できないとは思います。
絆とか同志愛とか耳にすると、もっともらしく聞こえるけど、結局、その属するコミュニティ「以外」の人間に想像力を巡らすものでもないし、「以外」には無関心という実態を隠蔽させる欺瞞の原理で枠内陶酔してもしかたがありません。
人間は、家族であれ、会社であれ、宗教であれ、地域コミュニティや国家であれ、誰しもどこかに所属する。しかし、その前に人間ですよね。そこが問われている。目の前の人間に関わることをなあーんもしないで、平和だの、福祉だの、教育だの、とってつけた言葉を口にするだけ、それをしたと錯覚して、大事なことをなあーにもしない。
どうなんだ、これ。