覚え書:「今週の本棚:磯田道史・評 『平安時代の死刑−なぜ避けられたのか』=戸川点・著」、『毎日新聞』2015年03月22日(日)付。

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今週の本棚:磯田道史・評 『平安時代の死刑−なぜ避けられたのか』=戸川点・著
毎日新聞 2015年03月22日 東京朝刊
 
 ◆戸川点(ともる)著

 (吉川弘文館・1836円)

 ◇執行停止から復活まで緻密に論評

 先月、日本文学者のドナルド・キーンさんが本紙上で「『源氏物語』に魅了されたのは、そこに日本の美しさがあふれていたから(中略)平安朝期にはたったの一人も、死刑になっていません」と語っておられた。「保元の乱までの三百五十年間、天皇の裁可による死刑執行は行われていなかった」(古代史家・吉田孝氏)。私は日本史上、公権がもっとも高頻度で死刑を執行したのは戦国から江戸前期との印象をもつ。たしかに日本の平安期は世界史的にみても、前近代社会としては死刑の頻度が著しく低かった可能性が高い。

 ただ平安期に死刑が皆無であったわけではない。本書は緻密に平安期の死刑をめぐる実態を論じている。奈良時代律令制下では死刑はあった。律(刑法)で死刑が定められていたが「一度死んだ人間は戻らない。死刑は慎重に」という理由で天皇の裁可を要した。死刑を乱発する帝王は徳がないとされ、仏の教えもあって、歴代天皇とくに奈良の大仏を造った聖武天皇は死刑判断を忌避し恩赦を多発。平安期に入り嵯峨天皇が死刑を停止。死刑制度を定めた律の規定はそのままに天皇が死刑を流刑に減刑する形をとった。平安期は刑がゆるめられた時代。貴族社会では、死刑になる罪人を二度、殺害刀と称する刀で突く真似(まね)をして都から流刑にして送り出した史料もある。死刑をしたことにする儀礼である。ところがこれは建前。地方では国司が専断で死刑を執行でき、新設の検非違使(けびいし)のなかにも独断で処刑を行う者がいた。さらに貴族や武士は配下に私刑を行えた。つまり、建前では、天皇の判断による死刑が停止される半面、天皇や上級貴族の判断によらない死刑が、ろくな裁きもなく行われる実態も生まれた。そして、平安中期以後、武士が存在感を高めてくると、死刑が復活する。保元の乱という大乱で、後白河天皇信西は、武士の死刑を判断せざるをえなくなり、貴族社会は死刑判断を天皇のもとで行った。それに衝撃をうけ、これを後世まで死刑復活と位置づけた、という。

 平安期に反乱が起きた場合、それを追捕(ついぶ)・鎮圧するのは武士である。武士や検非違使は現場判断で褒賞をもらうため、相手を討ち取ってしまうから、事実上、死刑の執行になった。都の貴族はそれを「梟首(きょうしゅ)」、さらし首にすることを「追認」するかたちで死刑にかかわるが、自分で処刑を判断するわけではない。そうやって死刑判断をまぬがれ、死の穢(けが)れや怨霊(おんりょう)を避けていた。ただ、こうした歴代天皇の死刑忌避が、人命に優しい平安日本の生成に影響した可能性はある。天皇や上級貴族の忌避は徹底していた。まず最上級貴族の摂関家の人間は「死人の首をみることはできない」と、反乱者の首をみる誘いを断っていた。穢れがかかるからだ。天皇も同じで「海賊」の反乱とされた藤原純友らの首が都についた時も、朱雀天皇は首を直接みることはできないので、絵師に写生させた首の絵をみた。それでも天皇が梟首をみたとされ、世評はよくなかったという。

 このように、日本では、死刑存廃の議論の前に考えておくべき問題がある。日本の法文化は平安時代から法律条文の根本的な改定を避ける傾向が強く、運用面で乗り切ろうとしてきた。つまり、日本国家は法を改正して終身刑を置くなどの抜本的な作業は苦手。一方、死刑制度はそのままに死刑執行を停止しておくといった運用面でのアプローチを平安期からよくとってきたことがわかる。まずは史書で、この国の法文化をみつめておきたい。
    −−「今週の本棚:磯田道史・評 『平安時代の死刑−なぜ避けられたのか』=戸川点・著」、『毎日新聞』2015年03月22日(日)付。

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