覚え書:「今週の本棚:井波律子・評 『大和屋物語−大阪ミナミの花街民俗史』=神崎宣武・著」、『毎日新聞』2015年03月22日(日)付。

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今週の本棚:井波律子・評 『大和屋物語−大阪ミナミの花街民俗史』=神崎宣武・著
毎日新聞 2015年03月22日 東京朝刊
 
 (岩波書店・2592円)

 ◇固有文化のありかた、鮮やかに

 東京や京都の花街(かがい)に比べ、大阪の花街は語られることが少ないと思われる。本書は、民俗学者の著者が、かつて新橋や祇園と肩を並べる、超一流の花街であった、大阪ミナミ(南地(なんち))宗右衛門町の大茶屋(おおぢゃや)、大和屋の最後の女将(おかみ)、阪口純久(きく)からの聞き書きをもとに、資料を網羅して、大和屋の軌跡を核としつつ、大阪ミナミの花街史をたどったものである。

 「父祐三郎(すけさぶろう)から娘純久へ」「『大和屋』のしだい」「南地(ミナミ)花街の歴史」「花街のおまつり」の四章から成る本書では、純久の父阪口祐三郎の発想の斬新さと、とびぬけたスケールの大きさが、多角的に描き出されており、圧巻というほかない。阪口祐三郎は、混沌(こんとん)とした大阪の花街がしだいに整備された明治四十二(一九〇九)年、伯母が宗右衛門町で営む芸妓(げいこ)の置屋(おきや)、大和屋の後を継いだ。花街変革の意気に燃える祐三郎は、翌年早くも芸妓養成所(のちの大和屋芸妓学校)を設立する。この学校は全寮制であり、毎年、総勢約二十人の十代初めの少女を受け入れ、五年にわたって、舞踊、三味線等々の芸事やお花、お茶などの稽古(けいこ)事にいそしませる。こうして徹底的に訓練され、芸やマナーを身につけた少女が一流の芸妓として花街にデビューするというわけだ。

 この大和屋芸妓学校から巣立った芸妓は、開校から昭和四十八(一九七三)年の閉校までの六十三年間に千人にのぼったという。そのなかから、地唄舞(じうたまい)の名手とうたわれた武原はんをはじめ、多くの名妓が誕生したのも、むべなるかな、である。ちなみに、祐三郎は芸妓の意識やマナーの向上をはかる『芸妓読本』をも執筆・刊行している。

 こうして、芸妓層のレベルアップをはかった祐三郎は、同時に、大和屋を宗右衛門町きっての大茶屋に成長させ、南地五花街(宗右衛門町、九郎右衛門町、櫓町、坂町、難波新地)を取りまとめた。そうしたなかで、刮目(かつもく)すべきは、正月の始業式で、五花街の芸妓席次表が発表されたことである。五花街すべての芸妓を技芸の優劣によって、甲、乙、丙、丁の四階級に分類し、さらに最上級の甲級は技芸試験によって甲一、甲二、甲三の三等級に分類するというものだ。当然、甲級に選ばれる者が一流芸妓に相当するが、その数はいたって少なく、芸妓総数の五分の一にも満たない。何とか甲級に入りたいと、芸妓衆が切磋琢磨(せっさたくま)したことは想像に難くない。向上心と誇りが、南地の芸妓、さらには花街全体を活気づけ、そこに張りつめた雰囲気をもたらしたとおぼしい。

 このように、ミナミの花街の黄金時代を築いた阪口祐三郎が、いわば剛腕の変革者だとすれば、昭和三十六(一九六一)年、父の没後、大和屋を継いだ純久は、はげしく変わる時代のなかで、大和屋を建て替え、調度、料理、もてなし等々の精度を高めるとともに、種々の行事や催しを積極的に実施し、より広く大阪花街文化をアピールするなど、奮闘しつづけた。しかし、後を継いだ四十二年後の平成十五(二〇〇三)年、ついに大和屋を閉じるに至った。ミナミ花街文化の終焉(しゅうえん)を見定めた、あっぱれな決断だったというべきであろう。

 著者は、祐三郎と純久の全力投球した生の軌跡をたどることを通じて、ミナミの花街、ひいては大阪固有の文化のありかたを、鮮やかに描きあげた。さらに、随所に織り込まれた民俗学を駆使した解説や、かつての繁栄をものがたる写真も、興趣を高めている。
    −−「今週の本棚:井波律子・評 『大和屋物語−大阪ミナミの花街民俗史』=神崎宣武・著」、『毎日新聞』2015年03月22日(日)付。

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大和屋物語――大阪ミナミの花街民俗史
神崎 宣武
岩波書店
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