覚え書:「耕論:戦後とは 原武史さん、アレクサンダー・コッホさん」、『朝日新聞』2015年04月07日(火)付。
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耕論:戦後とは 原武史さん、アレクサンダー・コッホさん
2015年04月07日
戦後70年。メディアには「戦後」があふれている。現在を生きる私たちにとって、戦後を語るとはどういうことなのだろう。誰の、どんな戦後を語るべきか。そもそも、戦後は戦前と断絶しているのか。日本とドイツの歴史家に聞いた。
■終戦で区切ると見逃す連続性 原武史さん(明治学院大学教授)
戦後はいつから始まったかと問われ、1945年8月15日の昭和天皇による玉音放送からだという人は多いでしょう。あれで戦争は終わった、と。ドラマでもそういうシーンがよくありますね。
たしかに「昭和天皇実録」を読むと、天皇にとって8月15日が早くから「終戦の日」となったことがわかります。でも、この日は放送が流れただけです。戦闘が続いた地域がいくつもありました。満州(中国東北部)や当時日本領だった南樺太や千島列島などです。
ソ連軍が攻めてきた南樺太の郵便局では、8月20日に9人の女性交換手が集団自決するという悲劇がありました。対ソ戦が終わるのは、9月2日に米艦ミズーリ号で降伏文書に署名した後の5日でした。「8月15日=終戦」ではないのです。
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<異なる戦争体験> ひとくちに「戦争の記憶」といっても、地上戦を体験した沖縄とそうではない日本本土とでは大きく異なります。沖縄以外の本土では、相手の顔が見えない空襲と原爆が「戦争体験」として語られてきたのではないでしょうか。
一方、外地で、たとえば中国大陸で中国人を銃や刀で殺した日本兵には、相手の顔が見えたはずです。日本に帰ったのち沈黙した人たちも少なくなかった。
そう考えると、日本では戦争の体験や記憶の共有が本当にできていたのか疑問です。けれども「戦後○年」というカウントだけは、全国共通のものとして行われてきたわけです。そこからこぼれ落ちてしまう体験や記憶が無数にあることに、注意するべきでしょう。
戦後を語るとき、ともすると「もう戦前とは違う」「別の国になった」ということが前提になっているように思います。憲法が改正され、政治体制は変わりました。しかし、戦前から継続していること、戦後も変わらなかったことはたくさんあります。
天皇に対する国民の意識が典型的です。敗戦の翌年から天皇の全国巡幸が始まると、各地にもうけられた奉迎場に万単位の人たちが集まり、日の丸を振り、君が代を歌い、万歳した。米軍統治下の沖縄をのぞく、北海道から九州まで、全国津々浦々でそうでした。
当時の政府が命じたわけではなく、国民の側が自発的にそうしたのです。目の前の天皇に対して自分たちの悲惨な状況を訴えるとか、夫や息子を戦争にとられたと抗議するとか、そういったことはほとんどありませんでした。ここには国民レベルでの、戦前との強い連続性が見られます。
「戦後○年」という形で区切ってしまうと、その前から続いていたものが見えなくなる可能性は、大いにあると思います。
日本社会について言えば、45年で戦前と戦後に分かれるという単純なものではありません。むしろ「戦後」でひとくくりにとらえられてきた期間の中に、もっと大きな時代を分ける断絶がいくつかあったのではないか。
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<戦後の中に断絶> なかでも50年代後半ないし60年代前半に、大きな歴史の裂け目があったといえます。農業社会から工業社会に離陸した時期です。
このころ都会に団地が生まれ、高速道路ができ、新幹線が開業しました。大阪をはじめとする地方の衰退が始まり、東京を中心とした国家ができあがっていく。明治初期の廃藩置県以来の中央集権化が達成される。それがこの時期です。私は戦前の1920年代と戦後の50年代の違いよりも、50年代と70年代の違いのほうが大きいと見ています。
さらに、60年代以降はモータリゼーション(自動車の大衆化)が進み、家電製品が普及し、大型スーパーが次々に開店しました。つまり日本社会のアメリカ化は、必ずしも敗戦とともに始まったわけではなく、60年代以降に一気に進んだというのが私の考えです。
独立回復の前と後、高度経済成長の前と後など、歴史に対する多様な見方が本来は必要です。
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はらたけし 1962年生まれ。専門は日本政治思想史。近現代の皇室、鉄道、住宅に詳しい。著書に「皇后考」「大正天皇」「レッドアローとスターハウス」など。
■加害と被害、一国では見えぬ アレクサンダー・コッホさん(ドイツ国立歴史博物館館長)
ベルリンにある私たちの博物館では、戦後70年を扱う特別展を4月24日から10月25日まで開きます。ドイツ一国の戦後ではなく、ドイツを含めた12の国の関係を扱います。注目してほしいのは、ドイツが大戦中に一部または全部を占領した10カ国も含まれるということです。
もちろん、ドイツの国立博物館なのだからドイツの立場で展示すべきだ、という議論がありました。でも、欧州の地図を見ればわかるように、ドイツはこの地域の中心に位置しています。ドイツの歴史を見ることは、欧州の歴史を見ることにもなります。私たちの博物館は開館以来28年間、ドイツ史を国際的な視点や文脈で伝えていこうとしてきました。
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<複数の立場から> 特別展の中身については、内外の8人の専門家を交え、激しい議論を重ねました。表題もその一つです。当初案は「降伏、解放、新生」でしたが、「これはドイツの視点ではないか」「ソ連にとっては降伏でも新生でもない」という反論が出ました。
その結果、「1945年――敗戦。解放。新生。第2次大戦後の欧州の12カ国」でまとまりました。12カ国とは、ドイツのほか、フランス、イギリス、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ、デンマーク、ノルウェー、旧ソ連、ポーランド、旧チェコスロバキア、オーストリアです。
博物館のホームページを見てもらえば、この特別展が、勝利と降伏、不安と喜び、解放と捕虜というように、正反対のキーワードと写真を並べて案内されていることがわかります。ドイツの側だけの見方ではありません。
展示に複数の立場を取り入れることで、ドイツが戦争で何をしたのかが見えにくくなったり、見ている側が混乱したりする可能性はあります。でも、私たちはそれも含め、来館者に刺激を与えたい。自分たちの歴史について議論する機会をもってもらいたいのです。それが歴史博物館の社会的機能だと考えるからです。
私たちは過去を、現在という眼鏡を通して見ています。歴史とは単なる事実の集積ではない。そこには必ず意味と認識が伴います。
例えば戦後、ポーランド内の旧ドイツ占領地に長年居住していたドイツ人が追放されました。これをどうとらえるか。今日でも対立する様々な議論があります。いったい何人が追放されたのか、ドイツ人は暴行されたのか、ポーランド政府の立場はどうあるべきか、追放されたドイツ人は被害者なのか加害者なのか。
客観的で正しい歴史などというものはありません。加害と被害についての議論も同様です。長年住み慣れた土地を追放されたドイツ人にとってポーランドは加害者ですが、ポーランドにとってドイツはその前に侵略した加害者です。
戦後のドイツ人は、過去にふるった暴力的行為のため歴史を見ることに過敏になり、なかなか向き合えませんでした。それが逆に、自分たちの国だけの一面的な見方を遠ざけ、多角的な視点や意見を取り入れて歴史を見ようとすることにつながったのだと思います。
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<話し合いが最善> 一国だけではなく地域全体で考えることは、東アジアでも十分可能でしょう。むしろ、いまの東アジアの(理解し合っているとは見えない)状況を考えれば、とても大切だと思います。
不都合な歴史や暗い過去に徹底的に向き合ったからといって、国家が敗北し、人々が自尊心を損なうなどということはありません。大切なのは、周りの国々とオープンに話し合うことです。それが最善かつ最重要です。近隣の国とは別れるわけにはいかないのですから。日本も同様でしょう。真の意味での自信や自尊心は、過去の事実を受け入れ、それらを克服することから生まれるものではないでしょうか。
(聞き手はいずれも編集委員・刀祢館正明)
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Alexander Koch 1966年生まれ。専門は歴史学。独マールブルク大学教授などをへて、2011年から現職。ドイツ国立歴史博物館は87年開館した。
−−「耕論:戦後とは 原武史さん、アレクサンダー・コッホさん」、『朝日新聞』2015年04月07日(火)付。
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http://www.asahi.com/articles/DA3S11691764.html