覚え書:「今週の本棚:渡辺保・評 『重力との対話−記憶の海辺から山海塾の舞踏へ』=天児牛大・著」、『毎日新聞』2015年04月19日(日)付。


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今週の本棚:渡辺保・評 『重力との対話−記憶の海辺から山海塾の舞踏へ』=天児牛大・著
毎日新聞 2015年04月19日 東京朝刊

 (岩波書店・2160円)

 ◇人間の身体とはなにかを問う

 天児牛大(あまがつうしお)は、今日もっともすぐれた舞踊家の一人である。私の見る限り能の友枝昭世(ともえだあきよ)、京舞の井上八千代、ダンスの勅使川原(てしがわら)三郎、それにこの間亡くなった坂東三津五郎を加えて五本の指に入る舞い手である。

 たとえば私は彼の「とばり」という作品を見て思わず胸が熱くなった。踊りとはかくも美しく、かくも深く、かくも面白きものかという思いを禁じ得なかったからである。

 その天児牛大が、その創作の秘密を語っている。もともとフランス語で出版された二つの小冊子を一冊にまとめてさらに加筆した日本語版であるが、彼がこれまで歩いてきた道について、あるいは創作の過程についてエッセイ風の散文と詩のような創作メモで書いている。

 たとえば

 「私の作品にはいつでも、平易で簡潔で、しかしだからこそある種の普遍性をたたえたテーマが奥底に流れていた。

  生死とは、

  時間とは、

  人の身体とは、なにか」

 天児牛大の舞台には、この永遠の問いかけがあるからこそ人の胸をゆさぶるのである。

 あるいはまた、こういう一節もある。

 「コウモンをしめ、オウカクマクを持ち上げ、カタを落としムネをしめる

 一本の鋼、あるいは鋳型のような肉体、内臓は浮いている

 一点を凝視し集中する

 抜倒(ばっとう)(バタッと倒れる天児牛大独特の振り−−評者註(ちゅう))」

 最初の一行についていえば、私はかつて地唄舞の神崎えんがこれと全く同じことをいうのを聞いた。洋の東西、文化の違い、ジャンルの違いをこえて、踊りの身体は同じ。人間の身体もまた同じである。その意味でこの本は踊りの本であるばかりでなく人間の身体とはなにかを問う本である。

 もっとも天児牛大地唄舞は同じではない。彼の場合はほとんど科学的であり、合理性に基づいている。ここに生きている感性は、深く人類の起源に通じ、あるいは遠く宇宙の彼方(かなた)を見ている美学である。

 こういう美学が成り立ったのは、彼が若い頃にフランスに渡り、日本よりも海外で広く認められたためである。日本とフランス。二つの文化の違いのなかに生きて、その違いと同時に、その共通点も発見した。

 たとえば世界各所に広がる古代の巨石文化や神話は、原始時代の人間がそのあふれる感情を刻んだ証拠だろう。彼はそれにふれて違う文化の深層に流れる普遍的なものに目ざめた。それは同時に人間の身体の歴史と宇宙空間への関心になった。

 人類は三十億年以上も前に、海からその生命が発生し今日に至った。母親の胎内に生まれた胎児は今でもその記憶を再現している。すなわち「わずか数日で胎児は魚類から両生類、爬虫(はちゅう)類から哺乳類へと形態の変化をとげ」て誕生し、地球の表面に接触し、やがてその重力に拮抗(きっこう)して二本足で立つ。宇宙を目指すのである。人間の身体のこの発生の構造が、彼に宇宙への視線、地球の「重力との対話」を発見させた。この空間と時間の二つの軸によって、踊りの身体を考えた時に、彼の身体はかくも美しくかくも深い輝きを発したのである。

 この彼の言葉が力強いのは、それが単なる知識や理屈ではなくて、実際に舞台で生きられ、舞台で発見されたものだからである。

 百聞は一見に如かず。天児牛大の踊りを見ればその事実は誰にでもわかる。しかしこの本を読めばさらによくわかる。
    −−「今週の本棚:渡辺保・評 『重力との対話−記憶の海辺から山海塾の舞踏へ』=天児牛大・著」、『毎日新聞』2015年04月19日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150419ddm015070023000c.html



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