覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『東アジア史の実像−岡田英弘著作集6』=岡田英弘・著」、『毎日新聞』2015年04月19日(日)付。

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今週の本棚:三浦雅士・評 『東アジア史の実像−岡田英弘著作集6』=岡田英弘・著
毎日新聞 2015年04月19日 東京朝刊

 ◇『東アジア史の実像−岡田英弘著作集6』

 (藤原書店・5940円)

 ◇モンゴル軸に世界を立体的に見る

 岡田英弘著作集第六巻『東アジア史の実像』が出た。一九七一年の「『ニクソン訪中声明』直後の台湾を訪れる」から、二〇〇九年の「清朝史研究はなぜ重要か」まで、ほぼ四十年にわたる論考、エッセイを集めたものだが、じつに面白い。この半世紀、東アジアの歴史は激動したが、著者の史観は驚くほど一貫しており、見通しもまた的中している。第1部に清朝、第2部、第3部に台湾、第4部に韓国、チベット、東南アジアを論じた文章を、そして第5部には折に触れての時事的発言を収めているが、執筆年次順に並べているわけではない。時を経て少しもぶれないその史観の堅牢を自負しているといっていい。この史観、アジアの世紀といわれる二十一世紀を予見するにじつに役立つ。

 岡田史観とは、一言でいえばモンゴルが世界史を作ったという説である。モンゴルがユーラシアの西の果てと東の果てを結んだ。むろんそれまでも東西はシルクロードによって結ばれていたわけだが間接的なものにすぎなかった。モンゴルはそれをじかに結んだのであり、だからこそマルコ・ポーロのような存在が可能になったのだ。モンゴルが世界経済に与えた影響は著しく、ルネサンスはその余波のひとつにすぎなかった。そういう見方である。過去にかかわるだけではない。中国もロシアもかつてモンゴル帝国の一部として繁栄したが、いまはその事実を認めたくない。そこで、その後ろめたさから逆に過激な行動に出ることが多い。まさに現在の問題なのだ。

 とはいえたんなるモンゴル中心史観ではない。それが重要なのは、たかだかこの二百年ほどのあいだに成立したにすぎない国民国家なる観念を前提として世界史を構想することの非を、徹底的に暴いているからである。モンゴル史は食(は)み出してしまう。第一巻『歴史とは何か』でも、ヘロドトスの直線的「正義の歴史」と司馬遷の円環的「正統の歴史」がいかに現代に悪い影響を与えているかが述べられているが、国民国家の観念、民族の観念はそれ以上に災いをもたらしている。本巻ではその問題が、清朝すなわち満州、民国すなわち台湾、さらに東南アジアの国々から中国が眺められることによって浮き彫りにされる。国民国家という観念など存在しなかった段階での歴史的事件が、国民国家の枠組みを通して語られてしまう悲喜劇を主題にしているようなものだ。

 「台湾人のルーツは日本」など挑発的な小見出しがあって、過激に政治的なのではないかとさえ思われるが、圧倒的に腑(ふ)に落ちる。台湾だけではない。ヨーロッパに国民国家の観念と民族主義をもたらしたのはフランス革命とナポレオンの侵略戦争だったという逆説があるが、東アジア、東南アジアにおいては明治維新と日本の侵略戦争が結果的に同じような意味を担っていたのである。

 だが、岡田史観がいまきわめて興味深いのは、それが、たとえばマルクス主義から決別して『リオリエント』を書いた経済史家フランクらの考え方と強い親和性を持つように見えるからだろう。鳥瞰(ちょうかん)すれば、この五千年、アジア経済こそが世界史の原動力だったのであり、西洋産業革命はそのアジアという巨人の肩にのった小人の芸にすぎなかった。フランクはそう主張するわけだが、皇帝とその帝国を商社として語り、漢字を商取引のための文字と見なす岡田史観と見事に呼応している。この呼応は、今後の東アジア史研究を大いに刺激するだろうと思わせずにおかない。

 世界を立体的に見るための必読文献である。
    −−「今週の本棚:三浦雅士・評 『東アジア史の実像−岡田英弘著作集6』=岡田英弘・著」、『毎日新聞』2015年04月19日(日)付。

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