覚え書:「インタビュー:『文化』にひそむ危うさ 仏社会学者、ミシェル・ウィエビオルカさん」、『朝日新聞』2015年04月25日(土)付。
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インタビュー:「文化」にひそむ危うさ 仏社会学者、ミシェル・ウィエビオルカさん
2015年04月25日
(写真キャプション)「人種差別主義者は、自分の考えの矛盾をまったく気にしません。困ったものです」=パリ、大野博人撮影
人種差別とはどういうことだろう。そもそもどんな人たちを自分たちとは違うと感じ、排除するのだろうか。ヘイトスピーチを繰り返し、「反日」などという言葉を平然と口にする。その背後に何があるのか。人種差別問題と苦闘するフランスで発言を続ける社会学者は、「文化」という言葉にひそむ危うさを指摘する。
——近年、日本で差別の問題がまた目立っています。在日朝鮮人・韓国人に、日本から出て行けというヘイトスピーチがなかなかやみません。また外国人とは居住は別にしたほうがいい、と書いた作家のコラムは物議を醸しました。「人種差別」として話題になりますが、ほんとうの理由が人種なのかどうかあいまいです。
「人種とは何か。今日、人種学の言説はほとんど消滅しています。もはや19世紀末のように、優等な人種と劣等な人種があって、それぞれかくかくしかじかの身体的特徴がある、なんていう論文はもうありません」
「しかし、ある人たちが自分たちとまったく違っていて変わりようがないのだ、という考えが、文化という概念の背後にあるとします。ならば、それは単に文化ではない。自然あるいは人種という考え方がそこにあるのです」
「つまり逆説的ですが、今、私たちは遺伝子的な意味での人種抜きの人種差別を相手にしているのです。たとえば日系人が日本で差別の犠牲になるとしましょう。差別する人の言い方はこうなるのでは。『君たちは生物学的には同じグループに属する。しかし、文化的に異なる』。この差別は生物学的なものから離れています。にもかかわらず違うという。文化を自然のように見なしているのです」
——つまり、文化という言葉を人種あるいは遺伝子という言葉の代わりに使っていることになるわけですね。本来、文化は変わりうるはずなのに、社会や個人には変えられない絶対的で決定的な違いという意味を込めている。
「文化とは変わり続けるものです。今日、まっとうな人類学者はたいていそういうでしょう。何年も何世紀も、同じままに安定して再生産され続ける文化などありません。つねに変化する」
——それにしても、なぜ今、私たちは差別の問題に直面することになったのでしょうか。
「現代の人種差別は、グローバル化の結果という面があります。日本だって世界的な傾向から免れられません。たとえば不平等といった社会問題が、文化や人種による差別の問題に姿を変えます。社会的な視点から見ると、差別をするグループもまた、社会の周縁に追いやられ、困難な暮らしをしている人たちだったりする」
「そもそも日本も同質的な社会ではない。在日だけではありません。アイヌも日系ブラジル人もいる。とても多様です」
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——時代の動揺が差別を生む下地は日本にもあるということですね。そのとき文化的な違いが絶対的な違いに読み替えられる。
「文化的な違いの問題はつねにナショナル・アイデンティティーと絡みます。それが文化的な同質性を指すという考えが浸透すれば、違う人たちを排除する発想につながりやすい」
「日本でその傾向が強まっているのではないでしょうか。中国との緊張、韓国との競合が強まり、経済的地政学的な日本の立場が揺らいでいるからだと思います。大事なのはグローバルな分析です。日本の中で問題があるにしても、それは同時にほかの世界との関係の問題でもあります。絡み合っています」
——在日には日本語しか話さない人は少なくありませんが、二重国籍が認められないこともあり、日本国籍を取らない人も多い。
「そこでも人種差別の対象は人為的に定義された一部の人たちです。依拠しているのは生物学的な特徴ではなく行政的な分類です」
「歴史的な事情もあるでしょう。記憶はときに人種差別主義者の思想を育みます。過去の記憶が特定のグループに結びつくと、人種差別主義者の想像の中で、たとえば朝鮮人や韓国人たちを一つの人種と考える見方をつくりあげる。そこに人種的なものはまったくないにもかかわらずです」
——たしかに文化的な違いは絶対ではない。それでも違いはそんなに簡単には乗り越えられそうにありません。
「すっきりとした解決策はありません。2005年7月、ロンドンでテロ事件がありました。フランスの識者は新聞で英国を皮肉った。英国流の多文化主義は、さまざまな文化を持つグループに開かれたすぐれた社会モデルだと自賛していたけれど、結局テロリストを育む温床になったではないか、というわけです。ロンドンのモスクで急進的な説教者が唱える主張が爆弾をしかけるような過激派を生んだのだ、と」
「フランスの論者たちは『われわれには共和主義モデルがある』といったものです。で、3カ月後。仏各地で暴動が続いた。起こしたのは移民系の若者たち。彼らの言い分はこうです。『自由と平等と友愛を約束したではないか。共和国という美しい約束。けれども守られなかった。だから反抗し、車を燃やすのだ』と。こんどは英国がフランスを皮肉った」
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——何から手を付ければ?
「まず欠かせないのは、法による監視でしょう。人種差別や憎悪をあおる呼びかけは断罪しなければならない。でも、それだけでは不十分。長期的に必要なのは教育です。異なるグループ出身の子どもたちをいっしょに生活させる」
「もちろん簡単ではない。とくに両親。『イスラム教徒なのでイスラム教系の学校に』『ユダヤ人なので、ユダヤ人学校に』等々。これはとてもあやうい」
——それぞれの文化や伝統を尊重したいという考えに基づいているようですが。
「尊重するだけでは不十分です。必要なのはおたがいに知り合いになることです。ある学校に貧しいイスラム教徒の子どもしかいなくて、別の学校には中流家庭のユダヤ人の子どもだけ、また別の学校には外交官や大企業のアメリカ人子弟しかいない。そんな風だと、みんないっしょに過ごした場合のようには、寛容で民主的にはなりにくい」
——多文化主義と共和主義の折衷案ですか。
「ほどほどの多文化主義といえるかもしれない。それは異なる文化にこういう立場を採ります。『私はあなたの特殊性を認める。あなたは私たちの文化の中で存在する権利がある』とした上でこう付け加えます。『しかし、普遍的な価値は受け入れなければならない』。例を挙げましょう。以前、アフリカのマリ系の移民の間で行われていた女子割礼について、フランスで問題になった。これは野蛮な行為です。普遍的な価値観に反します。当事者たちには『あなたにはあなたの文化とともに暮らす権利はある。しかし、限界がある。女子割礼はそれを超える。ただ、それをわかってもらえるよう説明します』と」
「ほどほどの多文化主義というのは説明する多文化主義です。相当な時間もお金もやる気も民主的な精神も必要。しかし、この方向で進むしかないでしょう」
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——人種差別禁止法制について、日本では表現の自由の絡みで慎重な意見も根強いです。
「それはフランスも同じ。シャルリー・エブド紙へのテロが起きてすぐ、『表現について無条件の自由を擁護する』という声が上がった。でもほどなく、同意できない人もいることがわかった。イスラム教徒はこう問いかけました。『人は私たちに、預言者の戯画にも寛容であれという。しかし、私たちがユダヤ人の悪口をいおうとすると、その権利はないという』。たしかにフランスではユダヤ人差別は法の規制対象です」
「ヘイトスピーチを禁止するのはよいことです。ただ行き過ぎてもいけない。各人が責任を持つことが望まれます。新聞は戯画を掲載する権利は持っているけれど、掲載を強いられているわけではない。ほんとうに必要で有益か。責任を持って行動するべきです。もし戯画が人種差別的な表現につながるならやめるべきでしょう」
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Michel Wieviorka 1946年生まれ。パリ社会科学高等研究院上級研究員。近著に「若者に説明する反ユダヤ主義」。
■取材を終えて
ナチスによるユダヤ人迫害の歴史もあり、欧州では人を差別するときに人種は口にできない。代わりに文化や宗教が持ち出されるようになった。だが、それは人種や遺伝子を別の単語で言い換えたにすぎない、とウィエビオルカ氏は考える。人種と呼ぼうと文化と呼ぼうと、人と人の間に絶対の壁があるとする思想。それが人種差別ということだろう。
お互いの文化を尊重する。多くの人が当たり前と思う考え方だ。しかし、人種と重なる意味が込められれば文化は人々を遠ざける理由になってしまう。国境を超えて人を結びつけるはずのグローバル時代。多様化する社会は人を分断する差別の口実にも満ちている。(論説主幹・大野博人)
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http://www.asahi.com/articles/DA3S11723082.html