覚え書:「今週の本棚:張競・評 『「厭書家」の本棚』=山崎正和・著」、『毎日新聞』2015年05月03日(日)付。

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今週の本棚:張競・評 『「厭書家」の本棚』=山崎正和・著
毎日新聞 2015年05月03日 東京朝刊

 (潮出版社・2160円)

 ◇精神史の風景を眺望する書物案内

 博覧強記の読書家はあえて自分のことを「厭書家(えんしょか)」という。むろん著者一流のレトリックだが、その比喩には若干の真実も含まれている。古今東西、無数の書物があり、いまも日々出版されている。限りのある人生では到底、すべてを読破できない。そこで必要なのは書物の善し悪(あ)しを見分ける眼力であり、良書を読み解く力である。その名人芸の一端を披露したのが本書である。

 劇作家として、学者として読書の範囲は広い。その見取り図を示すために、「知」「文学」と「社会」という三つの視座が用意されている。共通しているのは人類文明に対する巨視的な関心であり、よりよい未来のために、知的過去から何を学ぶべきかという探求心である。最終章では書物とともに執筆者たちの生の姿も活写されている。

 知識の類型化に対する批判的な思索は著者の仕事のなかで中心的な動機づけになっている。その意識はいきおい魂の本棚のラインアップや書物の批評にも姿をあらわしてくる。方法主義という固定観念に警鐘を鳴らし、専門性と制度の枠内に閉じこもる弊害を指摘した本を偏愛するのもそのためであろう。知識化の過程で何が見落とされ、何が排除されたかは、書物の紹介を通して明示されている。著者の書評はたんに新刊書の案内だけではない。いうなれば、書評という形での現代批評であり、知の体系を問い直す内省的な作業でもある。

 著者にとっての「文学」は決して狭い檻(おり)に閉じ込められているものではない。現代小説から、ノンフィクション、文芸批評、ひいては演劇論や映画論、文化論にいたるまですべてがその範疇(はんちゅう)に入る。「文学」という概念の歴史的変遷はもともと文化史の問題であることを考えると、ここにも知覚の体系化に対する著者の疑問と思索を感じ取れよう。

 「文学」と同じように、著者がイメージする「社会」もまた多様な意味合いを持つ。身近な地域社会にとどまらず、地球社会全体がその射程に入っている。西欧文化を熟知していながら、決して惑溺することなく、文化の他者との距離の取り方をよく心得ている。近代ヨーロッパの知識人は無意識のうちに西洋を普遍と見なし、文化人類学が非西洋文化を見下ろす視点とともに始まったと喝破したのもそのためであろう。豊かな学識と確かな知見に裏打ちされた書物批評を通して、私たちが生きている社会および現代人の精神性のあり方がより明晰(めいせき)に見えてきた。

 書物は孤立した存在ではなく、時代の変化を映し出す鏡であり、人類の知的活動の一環である。そうである以上、どのような歴史的・思想的な文脈のなかで生まれ、その前後関係のなかでどのような意味を持つかが重要である。限られた紙幅のなかで簡潔に紹介するのは至難のわざだが、読書の達人にとってはお手の物である。ダニエル・ベル『脱工業社会の到来』など同時代の知見の位置づけはいうにおよばず、メルロー=ポンティの『知覚の現象学』、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』といった名著の思想的源泉も俄然(がぜん)わかりやすくなる。

 著者の学問を図形に喩(たと)えていうならば、その全仕事は楕円(だえん)形のような広がりを持つものになるであろう。哲学と劇作は二つの定点になり、両者の距離の和が描いた曲線は批評活動の広さを示している。二つの定点は中心をなし、そこから放射状に文学や歴史批評から文化論や文明批評へと及ぶ。書評は決して片手仕事ではない。著者にとって精神史の風景を眺望し、現代社会の磁力を検測する手段である。
    −−「今週の本棚:張競・評 『「厭書家」の本棚』=山崎正和・著」、『毎日新聞』2015年05月03日(日)付。

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