日記:そもそもムスリムの女性のスカーフやヴェールが、「イスラームという宗教のシンボル」であるか

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 フランスもまた、9.11以降の反イスラーム感情をレイシズムとは把握できない国のひとつである。この国では1990年代の初めから、ムスリムの市民が「イスラーム性」を公的空間で示すことに大きな苛立ちがあった。具体的には、公立の中学校やリセに、ムスリム移民の女性がスカーフやヴェールを被って登校してくることだった。フランスには、ライシテという独自の世俗主義原則があり、公的空間は非宗教性を維持しなければならない。個人の信仰は自由であり、その自由を守るために、逆に公的領域への宗教の持ち込みを禁じているのである。

 2004年、公立学校でのスカーフやヴェールなど、「イスラームのシンボル」持ち込みを厳格に禁止する法が成立した。議会では圧倒的多数で可決されたのだが、ふだん左右両派に分かれて論争することの多いこの国では、イスラームムスリム移民に関する限り、左右両派が一致して規制に乗り出す傾向にある。さらに、2011年には、「ブルカ禁止法(4)」まで制定している。後者は、頭部をすっぽりと覆うアフガン女性の衣装「ブルカ」を公的な場で着用できないとするもので違反すると刑罰の対象となる。だが、フランスにこの衣装を着用するアフガニスタン出身者などほとんどいないから、ムスリムに対する一種の見せしめ的懲罰といわざるをえない。

 一連の法規制では、必ず、女性を反啓蒙の時代に連れ戻してはならない、ヴェールはパターナリズムの監獄を意味するといった批判が公然と主張された。この種の言説というものは、ローラ・ブッシュらがアフガニスタン侵攻を正当化するときに用いたロジックとまったく変わらない。唯一違うのは、フランスでは刑が科され、アフガニスタンでは戦争による死がもたらされた点である。

 わたしは、フランスが宗教的シンボルを公的空間に持ち込んではならないという国家原則をもつことを批判しているのではない。フランスの市民が協会による抑圧から逃れて個人の自由を確立していったフランス革命以来の歴史を否定的にとらえているわけでもない。フランスは1905年の「国家と教会の分離法」によって、共和制の下での世俗主義原則を確立したが、それでもなお、キリスト教の倫理を自由の抑圧に利用する教会との闘いは続いた。とりわけ、女性に対する抑圧の問題が、フランスに限らずヨーロッパのキリスト教社会において改善されるには、途方もない努力と闘いによらねばならなかったこともそのとおりである。その歴史的文脈に照らして、20世紀半ばから急増したムスリム移民が1980年代頃から急速に再イスラーム化の傾向を示したことが、フランス社会を大いに苛立たせたことも理解できる。

 しかしながら、根源的な問題として、そもそもムスリムの女性のスカーフやヴェールが、「イスラームという宗教のシンボル」であるかどうかを問わなかったことがムスリム差別の公然化に道を開いたのである。結論からいえば、スカーフもヴェールもイスラームのシンボルではない。着用している女性に尋ねればすぐにわかることである。

 スカーフを着用する人たちは、夫や父親の強制によって着用するケースと自分の意思で着用するケースに分かれるが、現在では後者が圧倒的に多くなっている。フランスでは、スカーフやヴェールをすべて強制による着用として一般化してしまうが、そもそも、フランスやほかのヨーロッパ社会のように、宗教から離れた生き方をすることに何の問題もない社会で、ムスリム移民の社会だけが、孤立して、宗教を利用した人権抑圧を続けることが可能だろうか。もちろん、こういう事例が、ヨーロッパ各国のジャーナリズムで取り上げられることは今でも少なくはない。スカーフやヴェールに限らず、強制的な結婚、女性の就労に対する男性親族の圧力、それに名誉殺人などが、イスラームと結び付けられる形で語られてきた。

 しかし、これらはみな、パターナリズムにしがみつくムスリムが、宗教上の規範を勝手に解釈したうえで女性への暴力を正当化しているだけであって、イスラーム的正当性はどこにもない。ムスリムにとって最高の法的規範であるコーランには、身の飾りとなる部位もしくは陰部を隠せという指示があるだけであって、スカーフやヴェールに関する明示的な規定はない。それに、イスラーム法には、たとえスカーフを被らなかったとしても罰則の規定はないのである。コーランハディースイスラーム創始者ムハンマドの生前の言行録)の文言から察するに、頭部やうなじなども覆うべきだろうと解釈したから、スカーフやヴェール着用が必要と解釈されたのである。つまり、これは女性の頭髪やうなじ、喉元などにセクシュアリティを男性側が感じるかどうかの問題である。男性側から見て女性のセクシュアリティを評価していることは明らかである。だが、男性にも同じ規定があるので、男性もまた性的部位の露出は禁じられる。しかし、男性の頭髪、喉元、うなじには性的な意味での「身の飾り」でも羞恥心の対象とも理解されていない。

 非ムスリム社会でも、女性の頭髪やうなじなどが男性によって性的意味合いをもつことはあるが、陰部であるがゆえに隠すというコンセンサスはない。フランス社会が問題にしているスカーフ論争は、この点に収斂する。ムスリムは、頭髪やうなじ、それに喉元までを陰部と解釈するから隠すのであって、西欧社会にはそういう感覚がないから隠さない。フランスに限らず、西欧社会の側は、自分たちの側に存在しない奇異な慣習が、自分たちが拒絶してきた宗教の力によるものであることに我慢できないのである。あらん限りの罵詈雑言で、スカーフを着用する女性を批判するだけでなく、女性にあのような姿をさせるのは男性の暴力に違いないと思い込んで、着用させる男性の側には、より重い刑罰を科すことにしたのである。

 ムスリム側の典型的な反論は、「では、身体の露出を大きくすれば、女性が解放されるとでもいうのか」というものである。フランス社会は、この問いに答えようとしない。いうまでもないが、パターナリズムによる女性への抑圧や暴力は、ムスリム社会に固有の現象ではない。一方でスカーフやヴェールを侮蔑してやまないヨーロッパ社会がパターナリズムを克服していないのだが、ムスリムに対する批判はアンフェアに高圧的である。

 もうひとつの反論は、「自由意思だからという弁明の下に、売買春を公認(もしくは黙認)している西欧社会は、女性の人権についてダブル・スタンダードをとっている」というものである。イスラームは、性の商品化を厳禁している。売春はムスリム社会にも存在するが、西欧のように公然化することはないし、ポルノグラフィも浸透しない。

 今日もなお、ヨーロッパの各地で半ば公然と行われている売買春や、ポルノグラフィの氾濫に対して、大方のムスリムは強く否定的である。むろん、西欧社会でも批判はあるが、これらを根絶せよというコンセンサスは形成されていないし、禁止する方向にもない。これは、教会と、場合によっては教会と国家が人間個人の自由を奪ってきた「過去」に対して、自由の拡大を要求し、勝ち取ってきた過去の西欧の歴史を都合よく「進歩」と解釈し、性の自由化と商品化を同一の次元で扱ってきた欺瞞にすぎない。それのうえ、「表現の自由」を普遍的な人権のうちに教えているから、ポルノグラフィもまた「表現」のひとつとして保護されるべきという主張が強い。

 何より重要なことは、スカーフやヴェールを着用する女性たちに、「脱げ」と命じることの暴力性を西欧社会、とりわけフランス社会が認識しない点にある。自らの意思で着用するムスリム女性にとって、これは明確な性暴力であって容認できない。女性に対して「スカートを穿け」「もっと丈の短いスカートを穿け」などと命じることは暴力ではなかったのか。このような行為が法制化され、「脱がない」ことに刑罰を科すことの暴力性が、ここまで認識されなくなったことは、これまでのヨーロッパにおけるムスリム移民への苛立ちだけでは説明し難い。ムスリムという人間に対する差別や抑圧が、差別と認識されない状況に至った背景には、9.11の衝撃が色濃く反映されている。
    −−内藤正典イスラームと正義 共約不可能性と共存の可能性」、内藤正典、岡野八代編『グローバル・ジャスティス 新たな正義論への招待』ミネルヴァ書房、2013年、24−27頁。

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