覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『日本の反知性主義』=内田樹・編」、『毎日新聞』2015年05月03日(日)付。

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今週の本棚:沼野充義・評 『日本の反知性主義』=内田樹・編
毎日新聞 2015年05月03日 東京朝刊

 (晶文社・1728円)

 ◇現代を覆い始めた不穏な空気分析

 最近、「反知性主義」という言葉が俄然(がぜん)注目を浴びている。常識的に言えば、「知性を軽蔑したり、あざ笑ったりする態度」のことで、実社会では役にたたない理屈を振り回すだけの青白いインテリをばかにする際にしばしば登場する。歴史的にみると、様々な国で、権力者や民族主義者が批判的インテリゲンチャを攻撃するときによく見られた。

 だから決して珍しいものではない。アメリカでは、政治史家ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(邦訳はみすず書房刊)がよく知られている。しかし、日本でもそれは、どうやら対岸の火事ではなくなってきたようだ。アメリカの場合は、建国以来、宗教的原理主義が底流にあったが、現代日本における「反知性主義」の背景には何があるのか?

 本書は編者内田樹の呼びかけに応えて、赤坂真理小田嶋隆白井聡想田和弘高橋源一郎、仲野徹、名越康文平川克美鷲田清一の諸氏が論考を寄せたものだ(ただし名越氏は、内田氏との対談)。作家、科学者、社会学者など、さまざまな立場からの、今の日本を覆い始めている不穏な空気をめぐる切迫感ある発言を集めている。

 ただし本書の論客はほぼ全員、現代日本の特に政治家に見られる「反知性主義」に対して批判的であり、その意味では本書は「偏っている」。ここでしばしば名指しで批判される政治家(例えば安倍首相や橋下大阪市長)にも寄稿をお願いして、反論していただいたら、本書は千倍面白くなるのではないか。

 内容は多岐にわたるので手際よく要約することは諦め、いくつか印象に残った論点だけを紹介したい。巻頭論文にあたる内田氏の文章によれば、反知性主義者たちは「気後れ」というものを知らず、大胆に嘘(うそ)をついてでも今の時点での勝利を目指す。確かに、「原発はコントロールされている」という主張とか、藪(やぶ)から棒に出て来た「八紘一宇(はっこういちう)」などというスローガンも、「気後れ」を知らない言葉である。内田氏はその意味で、彼らの視野は「狭く」、また「無時間的」だと言う。

 これを読んで、私はソ連出身の詩人ブロツキーがノーベル賞受賞講演で主張していたことを思い出した−−国家の哲学も倫理もすべて硬直した「昨日」であるのに対して、言語や文学は流動的な「今日」であり、しばしば「明日」にもなり得る、というのである。

 政治学者の白井氏は背景を分析しながら、この潮流の社会的文脈として「新しい階級政治」の誕生と、制度的学問における「人間の死滅」という状況を指摘している。前者は格差がますます広がる現代において、当然ありえる見方だと思うが、後者は衝撃的な指摘だった。反知性主義の世の中では誰も人間性の完成など目指さなくなり、特に人文系の学問は必要ない(ごちゃごちゃ面倒なことを言うのはたいてい人文系のインテリだ!)、という理屈である。

 そして、こういった潮流を推進していく人たちに共通して見られるのが、自分にとって不都合なもの、認めたくないものを平然と(粛々と?)「否認」する傾向だという。これは、政治や制度の次元にはとどまらず、大げさにいえば、人間性の根幹が崩れつつある現代文明そのものの問題ではないだろうか。

 最後に、哲学者の鷲田氏が本書の締めくくりとして引用している言葉を紹介しておこう。「意味の曖昧と、まるで雲を掴(つか)むような一般論の掃き溜(だ)め場所というものは、とかく全世界を相手として呼びかけられた演説のなかに存する……」。これは詩人エリオットの『文化の定義のための覚書』の一節である。
    −−「今週の本棚:沼野充義・評 『日本の反知性主義』=内田樹・編」、『毎日新聞』2015年05月03日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150503ddm015070028000c.html








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