日記:吉野作造記念館紀要『吉野作造研究』第11号、2015年4月。

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吉野作造記念館紀要『吉野作造研究』第11号(2015年4月)に、企画展「吉野作造キリスト教」でのオープニング講演録(2014年5月)を寄せました。

吉野のキリスト教信仰は「楽天的人間観」と一蹴されますが、非常に豊かなものです。ご高覧頂ければと思います。

近代日本のキリスト教受容の歴史において、キリスト教は間違いなく「お騒がせ宗教」(鈴木範久)であり、地の塩として日本社会に対する防腐剤の役割を果たしてきました。ただ、現実には、お騒がせという「異質」であるが故に、社会に「認知」されることを優先したのも事実。それ自体を否定はしませんが。

吉野作造を参照するまでもなく、戦前日本社会において、社会改善の人々を参照すると例外なくキリスト者の姿が散見されます。ただし、「修養倫理」として受容された教会メインストリームは、そうした野の奔走に冷笑的であり、例えば、内村鑑三的なるものは例外として認知めざしたのも事実なんです。

(これはキリスト教に限定されるものではありませんが)お騒がせとしての「異質」なものが、社会に認知されるという「文化内開花」は非常に重要な挑戦と考えます。ただしかし、その社会に「認められる」ことが、社会の歪みに馴致されるものと同義であるとすれば、それは文化内開花なんてものではありません。

これは宗教だけの話ではないけど、確かに認知されることが字義通りとして「社会のためになっている」というのは悪い話ではありません。

しかし、その「ためになっている」ほこさきの「社会」が歪んでいた場合、どのようにアクセスしていくのか。吉野作造の軌跡、その見本となるし、規律権力や同調動圧からの逸脱指南となっています。


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