覚え書:「今週の本棚:橋爪大三郎・評 『日中戦後賠償と国際法』=浅田正彦・著」、『毎日新聞』2015年05月24日(日)付。

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今週の本棚:橋爪大三郎・評 『日中戦後賠償と国際法』=浅田正彦・著
毎日新聞 2015年05月24日 東京朝刊

 (東信堂・5616円)

 ◇先人の叡知を忘れてはならない

 中国との戦後処理、平和条約と戦後賠償から西松建設事件など個人賠償訴訟まで、錯綜(さくそう)した問題の全体を、国際法の観点から見通しよく整理した労作だ。戦後七○年のいま、外交関係者や法曹界、ジャーナリストはもちろん、図書館で多くの国民が本書を手にとってほしい。

 日中間の戦後処理は適切で、賠償問題は解決したか。それを考える根拠法典はサンフランシスコ対日平和条約、日華平和条約日中共同声明の三つだ。

 国共内戦で国民党は敗れて台湾に逃れ、大陸には中華人民共和国が成立した。二つの政府はどちらもサンフランシスコに呼ばれなかった。対日平和条約に中国は署名できなかった。

 日華平和条約は、サンフランシスコ条約が発効した日に調印された中華民国(台湾)との二国間条約。内容は同条約と同様、戦争状態の終了を宣言、日本に対する賠償請求権を放棄している。戦勝国の地位を明確にしたい中華民国は、調印を急いだ。日本側はこれで中国との戦後処理が終了したと考えたが、問題もあった。「台湾および澎湖諸島」は戦時、日本の一部で、戦争地域でなかった。対日平和条約にいう戦争被害の賠償請求権(の放棄)にあてはまるのは、中華民国の統治が及ばない大陸で、それを中華民国政府が放棄したかたちになった。

 一九七二年、田中首相が中国と国交交渉する際、焦点はこの日華平和条約だった。中国は、中華人民共和国を中国の唯一の政府とする立場から、この条約は無効で、戦争状態の終了は新たに宣言すべきだとする。日本は、日華平和条約で戦争は終結しており、賠償問題も処理ずみだとする。厳しい応酬のすえ、日中共同声明が合意された。

 まず声明は条約でないから、日華平和条約と重複しない。声明で中国は、戦後の賠償を放棄するとしたから、日華平和条約に縛られず、自ら請求権を放棄したことになった。声明は、戦争状態の終結を願いつつ、《これまでの不正常な状態は…声明が発出される日に終了する》とのべ、戦争がいつ終了したのかあいまいにした。日中双方の立場は守られた。玉虫色のガラス細工のような声明が合意できたのは、日中関係の正常化を望む、両国の熱意のおかげだ。

 声明のあと日本政府は日華平和条約の「終了」を宣言した。

 国が賠償を放棄すれば、個人は補償を請求できないのか。浅田氏は、その法理を明らかにする。日中共同声明日華平和条約を踏まえ、日華平和条約は連合国の対日平和条約を踏まえている。その第十四条bに、《連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の…請求権…を放棄する》とある。連合国は、個人の請求権も放棄する、と約束したとするのがこの条項の通常の解釈だ。日華平和条約は、同様の条項を含み、日中共同声明はその同じ内容を新たに宣言した。中国政府もまた、日中共同声明によって、中国の人びとが個人として日本に賠償を請求する権利を放棄したのだ。

 近年、中国国民の請求権にもとづく訴訟が起こされ、日本の最高裁ほかの判決がいくつも出ている。浅田氏はそれらを精査し、判決の根拠や法理を批判的に吟味している。今後の訴訟にも活(い)きるであろう、貴重なコメントである。

 本書から思うのは、戦後処理や日中関係の正常化に精魂を傾けた先人の叡知(えいち)を忘れてはならないこと。ささいなナショナリズムや思いつきの心情で、国際関係を弄(もてあそ)んではならないのである。
    −−「今週の本棚:橋爪大三郎・評 『日中戦後賠償と国際法』=浅田正彦・著」、『毎日新聞』2015年05月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150524ddm015070019000c.html



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日中戦後賠償と国際法
浅田 正彦
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