覚え書:「今週の本棚:川本三郎・評 『戦争画リターンズ−藤田嗣治とアッツ島の花々』=平山周吉・著」、『毎日新聞』2015年05月24日(日)付。

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今週の本棚:川本三郎・評 『戦争画リターンズ−藤田嗣治アッツ島の花々』=平山周吉・著
毎日新聞 2015年05月24日 東京朝刊

 (芸術新聞社・2808円)

 ◇戦死者への鎮魂の思いこめた宗教画

 戦争そのものは否定しても、戦場で死んでいった兵隊のことを思うと粛然とする。

 藤田嗣治戦争画アッツ島玉砕」は、戦場の悲惨を描いて鬼気迫るものがある。日米兵士の累々たる死体。かっと見開いた目。苦痛に歪(ゆが)む顔。死の叫びが聞こえてくるようだ。

 昭和十八年に描かれたこの作は、戦意高揚の絵として語られ、藤田嗣治は戦後、戦争犯罪人と指弾されるのだが、よく見れば、むしろ反戦厭戦(えんせん)の絵ではないか。鎮魂の思いがこめられた宗教画ではないのか。

 昭和史の研究家である著者(昭和二十七年生)は、この一枚の絵の衝撃から、当時の時代状況、アッツ島の戦い、玉砕、を辿(たど)ってゆく。よく調べられ、全体に戦争で死んでいった者への追悼の思いがこもっている。熱い力作で時折り涙が出る。

 アッツ島アリューシャン列島の孤島。一年の大半が寒さにとざされる。人間の住めないこの島で昭和十八年五月、日本とアメリカが戦い、戦力で劣る日本の守備隊約二千五百名が玉砕した。太平洋戦争下で「玉砕」の名が使われたのは初めて。

 藤田嗣治はこの壮絶な戦いを絵にした。毎日、十三時間、二十二日にわたり、面会謝絶で描き続けた。自分が描いた絵が動き出してきそうで「自分が自分の絵が恐ろしくなり、線香を焚(た)き、花をそなえて描きつづけた」。

 著者は、当時、完成したこの絵を見た人々の感想を書いてゆく。学生だった山田風太郎は日記に「薄暗い凄壮(せいそう)感」に襲われたと記す。やがて兵隊にとられる新藤兼人はのち回想記で、絵の中の兵隊がじっと自分を見ているようで「戦争への恐怖に私は身ぶるいした」と書いた。決して戦意高揚の絵ではなかった。

 展覧会は、青森や盛岡でも開かれたが、絵の前で「膝まづいて」両手を合わせ祈る老男女の姿が見られたという。国民は、藤田嗣治の絵によってアッツ島玉砕の悲劇を知り、思わず手を合わせた。いかにアッツ島玉砕と、この絵が国民に衝撃を与えたかが分かる。

 太宰治の戦時下(昭和十九年)の作品に「散華(さんげ)」という短篇がある。著者によれば、この小説に登場する「三田君」という弟子のような文学青年は、アッツ島で玉砕している。太宰は彼を悼んで筆をとった。当時、アッツ島玉砕は国民全体が共有する悲劇だった。

 それにしても、なぜアッツ島が戦場になったのか。著者は、戦史を調べてゆくうちにそのことに疑問を持つ。極北の地の、人間の住まない小島である。軍事上、重要でもない。

 アッツ島守備隊長山崎保代(やすよ)の遺児、保之は戦後、昭和二十八年に慰霊のために島を訪れた。岩ばかりの荒涼とした風景を見て、保之は手記に書いた。「(略)燃料にする一木もなく、土壌の存在しないこの島では、戦略上の価値を認めることはできない」

 昭和四十四年にやはりアッツ島を訪れた作家の阿川弘之もまた、アッツ島の戦いは、日米双方にとって、無駄な、無用な戦争だったとした。

 それなのに激戦が行なわれ、多くの犠牲者が出た。なぜだったのか。その謎に迫る著者の筆は、慎重にして熱がこもっている。さまざまな資料を読みこみ、玉砕の謎を追う。

 アッツ島は実は、貴重な植物に恵(めぐま)れた「花々の島」だった。だから藤田嗣治は兵士の死体のそばに小さな花々を描き添えた−−。

 昭和天皇は当時の戦争画を何点か見ているが、著者の調べた限りでは「アッツ島玉砕」は見ていないという。孤立無援となった島での戦いを心にかけていたにもかかわらず。
    −−「今週の本棚:川本三郎・評 『戦争画リターンズ−藤田嗣治アッツ島の花々』=平山周吉・著」、『毎日新聞』2015年05月24日(日)付。

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