覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『臨床医が語る 認知症と生きるということ』=岩田誠・著」、『毎日新聞』2015年06月21日(日)付。

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今週の本棚:村上陽一郎・評 『臨床医が語る 認知症と生きるということ』=岩田誠・著
毎日新聞 2015年06月21日 東京朝刊

 (日本評論社・1512円)

 ◇未来は絶望的ではない

 超高齢化を迎えた日本社会の抱える大きな問題の一つが、認知症である。永年認知症に関わってきた著者には、すでに『臨床医が語る 認知症脳科学』があって、原理的な側面と臨床面とを繋(つな)ぐ仕事があるが、今回の著作は、ほとんど専門的な知識なしに、内容を理解できる極めて有難い書物である。

 もっとも、著者は認知症という呼称にも異を唱える。二〇〇四年に厚生労働省の先導で、「痴呆(ちほう)」と呼ばれていた症名が認知症に変更されたことは、よく知られているが、もともと「痴呆」の持つ差別的な意味合いを避けたはずの改名の結果が、ラベルを変えただけで、世間の理解は依然として「痴呆」時代と変わっていないことへの強い問題意識が、著者にはある。

 それはそれとして、認知症の理学的要因は、老化とともに、脳内にある種のたんぱく質が溜(た)まることにある。極(ごく)まれに、この経過を辿(たど)らない遺伝的な性質をもつ人がいるが、大部分は、この理学的経過を避けることができない。その意味では、社会の高齢化と認知症患者の増加とは、「必然」である。

 しかし著者は、例えば、アメリカの修道女群による永年の蓄積データを紹介するが、そのデータが示す事実は、上に述べた理学的要因が、認知症発症の決定的な原因ではない、という点である。つまり当該のたんぱく質が脳内に蓄積しても、必ずしも認知症が発症するとは限らないのである。本人が創造的な性向と行動とを持ち合わせている場合には、たんぱく質の蓄積と無関係に、健常な老年を送る可能性が生まれる。

 また認知症患者の問題行動として、よく「徘徊(はいかい)」が挙げられる。家庭内でも、あるいは介護施設でも、やむを得ずではあろうが、身体拘束に走ることも多い。著者の解釈は、徘徊は帰宅願望の発露で、それを理解すればある程度の対応はつくと主張する。介護施設に収容された場合はもちろん、今まで別居していた家族に引き取られた場合でも、自分が本来いるべきでない場所にいるという、不安や違和感が徘徊行動に繋がる、というのである。

 同じことが被害妄想にも言える。普通の状態でも多少はあるはずの、被害意識が、過剰になっているとすれば、それを理解して、先へ先へと対応すれば、極端な問題行動は避けられる場合が多いのだ、と著者は主張する。

 一方、著者によれば、認知症患者が、痛みや危険に対する感受性が薄れることには、周囲が十分気を付けなければならない。その際は、説得でなく納得を目指すことが望ましい。また、論理的な考え方自身は完全には失われていないので、短記憶が薄弱なために起こる困った事態(例えば同じものを繰り返し買う)を非難されると、言訳の理屈を言い立てる、などの反応を示すために、周囲にトラブルを起こし易いことにも留意すべきである。ここでも納得が必要になる。

 こうして、著者は、認知症を理解するための必要事項を、一つ一つ丁寧に、丹念に解き明かし、要らざるトラブルを避ける可能性を熱心に説くのである。

 認知症患者を取り巻く周囲の人々(そのなかには、家族はもちろん、医師や看護師、介護に当たる人々も含まれる)の、認知症に関する理解が行き届くことで、彼らの眼差(まなざ)しが変わり、付き合い方が変われば、来るべき認知症社会が、絶望的ではないはずだ、というこの専門医の提言は、日本社会の未来にとって一つの救いであると言えるかもしれない。
    −−「今週の本棚:村上陽一郎・評 『臨床医が語る 認知症と生きるということ』=岩田誠・著」、『毎日新聞』2015年06月21日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150621ddm015070020000c.html


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