吉野作造研究:「こちら特報部:『女工哀史』誕生支えた 女工快史 筆者の『妻』高井としを物語」、『東京新聞』2015年06月14日(日)付。

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こちら特報部
女工哀史」誕生支えた 女工快史
筆者の「妻」高井としを物語

紡績工場の内実伝える
印税渡らなかったが…
貧乏と闘い人生切り開く
日雇い労働者の組合組織

 明治、大正時代の紡績工場の過酷な労働実態を記録した「女工哀史」が発刊から九十年を迎えた。その印税は都立青山霊園の「無名戦士之墓」建立に充てられ、著者の細井和喜蔵はじめ、労働、社会、平和運動に取り組んだ四万人以上が合葬されている。しかし、美談の陰で、和喜蔵を支え女工哀史の感性に寄与した女性が、死ぬまで貧しさと闘っていたことはあまり知られていない。和喜蔵の内縁の妻、高井としをだ。彼女の生涯をたどった。(沢田千秋)

 大江山連峰に抱かれた京都府の奥座敷、与謝野町加悦は、丹後ちりめんの一大生産地だった。和喜蔵の祖母も母も織り子で、「カタンカタン」という機織りの音を聞きながら育った。父の顔は知らず、六歳の時、母が自殺。祖母も病死し、十五歳で故郷を去る。大阪、東京の紡績工場を転々とし、短い生涯を女工哀史に捧げることになった原点は、苦労した祖母や母の後ろ姿だったのだろうか。
 一方、としをは、山深い岐阜県揖斐川町東津汲で炭焼きの子として生まれ、十歳で紡績工となった。過酷な労働環境に反発。独学で文字を学び、理不尽や不条理に敢然と立ち向かい、「弁護士」とあだ名されるほど弁が立った。十七歳の時、勤務先の豊田紡績(愛知県)でストライキが起き、政治学吉野作造の論文「個性の発見」が掲載されたビラを手にする。「個性の発見に努力せよ。労働者よ、団結せよ。自己の尊厳さに目覚めよ」という文章に覚醒。その夜、荷物をまとめ、いきなり上京してしまった。
 東京・亀戸で、和喜蔵ととしをは出会った。病弱で紡績工場を解雇された和喜蔵を、としをは経済的に支えた。そして、女性しか立ち入れない工場の寄宿舎でのエピソードや女工たちの考え方を語って聞かせた。
 巨大工場は、夏には室温四〇度、湿度90%にも達し、会話もできない機械の轟音の中、数百人の女工が汗と綿ぼこりをまとわりつかせ、一日十二時間働いた。日給は、今の開閉価値で千−二千円程度。和喜蔵が「豚小屋」と称した寄宿舎では、昼番、夜番が同じせんべい布団で寝起きし、ぬか臭い具なしみそ汁とばさばさの外米にたくあんだけという「ブルジョアに飼われる犬より劣った賄い」を食べ、栄養失調や病で倒れる者が後を絶たなかった。
 一九二二年、二人は事実婚の形で結婚する。翌年の関東大震災を挟み、生活はより苦しくなったが、和喜蔵はますます女工哀史の執筆に打ち込んだ。としをは後に述懐している。「細井は色の白い目元の涼しいきれいな人だった。『世の中に男と女は半分づつで平等だから、女性が解放されなければ人類は救われない」と言って、働く私に代わって炊事や掃除をしてくれた」。当時には珍しいフェミニストだった和喜蔵は、人々の着物を織る女工を「人類の母」と称し、その地位向上のため女工哀史を書き上げた。
 和喜蔵と交流があった作家の藤森成吉が、当時、志賀直哉谷崎潤一郎芥川龍之介ら一流作家が名を連ねた雑誌「改造」の山本実彦社長に女工哀史を紹介。二四年に掲載される。和喜蔵ととしをの実体験に基づく渾身のルポルタージュは大きな反響を呼ぶ。しかし、二五年七月の単行本化の直後、和喜蔵が急性腹膜炎により、二十八年の短い生涯を閉じた。ただ女工哀史の上梓にのみ与えられたような命だった。

 としをの運命は、その後翻弄される。和喜蔵の死の翌月、早産した男児は一週間で息絶えた。二七年、活動家高井信太郎と結婚し、七人の子をもうけたが、うち二人は早世。戦災で夫も失った時、全財産は三十六銭だった。戦後は自らの手で人生を切り開く。夫を亡くした母親や高齢者らをまとめて日雇い労働者の組合を組織し、先頭に立って、健康保険や子どもの教科書代、託児所などを勝ち取っていった。
 兵庫県伊丹市で暮らす四女勝子さん(七一)は振り返る。「母は身長一四〇センチもない小柄な人で、朝早うから夜遅うまで働いていた。女工哀史の印税があれば貧乏せずに済んだと言うたことがある。私が中学生ぐらいのころやった」。としをの困窮と裏腹に、女工哀史はベストセラーになっていた。なぜとしをに印税が渡っていなかったのか。
 和喜蔵の死の直後、改造社の山本社長は印税として、としをに二千円(現在の約百万円)を渡した。だが、としをはやけを起こし「この金が二カ月前にあれば、細井父子の命は助かっていた」と、飲食や高級着物に浪費。怒った作家の藤森が、としをが和喜蔵と内縁関係だったことを理由に、女工哀史の表舞台から遠ざけたという。
 藤森は印税の使途を「『細井和喜蔵遺志会』の名で紡績や蚕糸産業労働者の解放運動に使った。一番は蚕糸労働者のための宣伝パンフレット作成と、無名戦士之墓の建立」と記している。
 女工哀史は五四年、岩波文庫に収録された。旧著作権法の下、印税は五五年まで発生した。当時の価格と部数から試算すると、年間数十万円(現在の百万−二百万円)になる。無名戦士之墓の建立は三五年で、以降、この金はどこへいったのか。
 周辺を調べるうち、印税の最後の受取人と思われる人物にたどり着いた。「山本?」。五二年に死去した山本社長の二人目の妻だ。?氏が受取人だった理由について、鍵を握るのは岩波書店と出版交渉した藤森だが、孫の男性は、取材に「経緯は聞いたことがない」と回答。鹿児島県薩摩川内市にいた山本社長の親類も亡くなり、真相は闇にうずもれた。
 としをに印税が渡らなかった背景を、生前、取材した元京都女子大教授の棚橋美代子氏は「当時は労働、社会運動家でも男目線で、女性の活発な行動を制約する風潮があった」と推測する。「としをさんは自分の利益は考えず、女工や工員の過酷な環境を世間に訴えたいという和喜蔵の使命に共感し純粋に協力した。その気持を周辺がくみ取ってあげられなかったのが、とても残念」と話す。
 としをは自身の著作「わたしの『女工哀史』」で、「働いても働いても一生貧乏」とつづった。だが、文芸評論家の斎藤美奈子氏は、「としをさんの半生の中で、労働者がうちひしがれるだけでなく、いかに闘うかが描かれている。印税の不払いを乗り越えて切り開いた人生は、『女工哀史』と呼ぶにふさわしい。現代人が読んでも励みになる」と評価する。八三年、としをは八十一歳で波乱の人生の幕を下ろした。
 和喜蔵の古里、与謝野町には、五八年に有志でつくる「細井和喜蔵を顕彰する会」が建てた「女工哀史細井和喜蔵碑」がある。除幕式に招かれたとしをは、大江山を仰ぎ見て涙ぐんだという。会の代表松本満さん(六七)らは、青山霊園の無名戦士之墓へ、としをの合葬を求めて動き、二〇一一年、実現させた。としをの肩書は「細井和喜蔵著書の共作者」。機織りの街の人々によって、女工哀史におけるとしをの正当な評価が後世に伝えられている。
[デスクメモ]岩波文庫版の「女工哀史」は累計三十七万部。としをの自伝「わたしの『女工哀史』」は一九八一年に別の出版社で刊行されたが、斎藤美奈子氏の「本音のコラム」をきっかけに、先月、岩波文庫に収録された。労働者派遣法や残業代ゼロが問題になっている今、若い世代にもぜひ読んでみてほしいと思う。(国)
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