覚え書:「今こそ美濃部達吉:『天皇信仰』排し、純粋な憲法解釈/攻撃にも自説曲げず」、『朝日新聞』2015年07月20日(月)付。

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今こそ美濃部達吉:「天皇信仰」排し、純粋な憲法解釈
2015年7月20日
学説はクールでドライ。でも、筋の通らない批判には熱い心で立ち向かった。

 集団的自衛権の行使を認める安全保障法案の成立を急ぐ安倍政権。従来「違憲」だったものを内閣の判断で「合憲」と主張するのは「立憲主義」に反すると、憲法学者たちが批判の声を上げている。

 戦前の日本でも、憲法をないがしろにするような主張に敢然と挑んだ学者がいた。美濃部達吉だ。

 憲法は、個人の権利を守るために、権力者が好き勝手なことをしないよう、つくられる。その源は、王に貴族や市民の権利を認めさせた中世イギリスの「マグナ・カルタ」にまでさかのぼるという。憲法で権力者をしばり、政治を行うのが立憲主義だ。

 欧米の思想や制度を導入して近代国家として歩み出した明治の日本も憲法をつくる。ただ、「万世一系天皇之ヲ統治ス」と規定する憲法から、天皇が無制限の権力を持って国を統治するものだと、東京帝国大学教授の穂積八束(やつか)らは主張した。

 学生時代に穂積の授業を受けた美濃部は、穂積説を「立憲政治の精神を無視し、憲法を根底より破壊するもの」と批判。国家の代表者の天皇も、無制限の権力を持つのではなく、憲法の規定に従うことになると唱えた。

 石川健治・東大教授は美濃部の考え方を「非常にドライ」と指摘する。

 穂積らの説は、天皇を現人神(あらひとがみ)と奉る「信仰」や皇室に世界に例のない忠誠尊崇の念を抱く「倫理的感情」と結びつく。しかし、美濃部流の「法学のめがね」をかけると、信仰や感情は「憲法を超越したもの」と映り、憲法解釈から排除される。そして、「法学のめがね」で、純粋に憲法を解釈した美濃部の説が、明治末〜大正の論争を経て、当時の憲法学界で通説となる。

 だが昭和になると、美濃部を取り巻く状況は暗転する。

 80年前の1935年、帝国議会貴族院で陸軍出身の議員が、美濃部説は「皇国の国体を破壊する」もので、美濃部は、都合のよい学説を唱えて社会に悪影響を与えるというような「学匪(がくひ)」であると非難した。軍国主義に批判的だった美濃部が、軍部や右翼によってやり玉に挙げられた。

 貴族院議員だった美濃部も議会で「一身上の弁明」を述べる。学説批判は、美濃部の著書の片言隻句を取り上げてあらぬ意味に誤解したものであると主張。「粛々と」反論する美濃部の胸には、「決闘」に挑むような強い気持ちが秘められていた。

 しかし、「粛々と」語られる言葉は、「上から目線」に聞こえることがある。演説は軍部や右翼の反発をあおり、美濃部への攻撃が激化。著書が発禁処分となり、貴族院議員の辞職にも追い込まれる。ただ、学説をまげることはなかった。

 美濃部の「弁明」が、騒ぎの火に油を注いでしまったという指摘もある。しかし、高見勝利・上智大教授は「ここで言わなければ、学者としての存在を否定されると考えたのだろう」と見る。「学者なら、根拠もなく、自分の説を変えることはできない。美濃部がとったのは、当たり前の行動だと思います」

 (藤井裕介)

 <足あと> みのべ・たつきち 1873年、現在の兵庫県高砂市生まれ。子どものころは、人づきあいの悪い「変わり者」だが、成績優秀の「神童」と評判だった。97年に東京帝国大学卒業、内務省に入る。後に大学に戻り、1902年、東京帝大教授。48年、75歳で死去。長男の亮吉は、マルクス経済学者で、67〜79年に東京都知事を務めた。

 <もっと学ぶ> 高見勝利編「美濃部達吉著作集」(慈学社出版)には、美濃部の憲法についての考え方などを伝える戦前〜戦後の著作がまとめられている。立花隆天皇と東大3 特攻と玉砕」(文春文庫)で、美濃部への攻撃の経緯や背景が詳しくわかる。

 <かく語りき> 「学匪と罵(ののし)られては起(た)たないわけには行きませんでした、外国なら決闘するところです」(1935年8月8日付東京日日新聞から)

 ◆過去の作家や芸術家などを学び直す意味を考えます。来週は作家・坂口安吾の予定です。
    ーー「今こそ美濃部達吉:『天皇信仰』排し、純粋な憲法解釈/攻撃にも自説曲げず」、『朝日新聞』2015年07月20日(月)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11869523.html


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