日記:「より」よく導いていくという理想を掲げるのであれば、通俗的に「より」愛国者であることを慎重に退けることでもあらねばなりません

Resize3106



社会のために貢献している宗教はすごいという話をよく聞きますが、何をもってして社会のために貢献しているのかについて無自覚であるとアウトなので、拙論から少しだけ紹介しておきます。


        • -

 さて、戦前日本のキリスト教は(1)精神の第二維新として受容され、(2)修養倫理として展開することを確認しましたが、明治最晩年にその明暗を象徴する出来事があります。それは1912(明治45)年、内務次官・床次竹二郎の根回しで開催された「三教会同」という「事件」です。
 華族会館神道、仏教、キリスト教の代表が集まり、「(一)吾等は各々其教義を発揮し皇運を扶翼し益々国民道徳の振興を図らんことを期す。(二)吾等は当局者が宗教を尊重し政治宗教及び教育の間を融和し国運の伸張に資せられんを望む」と宗教者たちが決議しました(6)。
 禁教・黙許・大日本帝国憲法下における制限下の信教の自由という状況のなかで、常に外来の宗教として批判され、内村鑑三不敬事件に見られるように時勢によって国体との衝突という「踏み絵」を強制されるのがキリスト教再渡来の歴史ですから、三教会同は、キリスト教が一定の市民権を得た出来事と積極的に評価することは不可能ではありません。無教会主義の内村鑑三のほか、日本基督教会の井深梶之助やメソジストの本多庸一、吉野作造の所属する組合教会では柏木義円は三教会同に反対しましたが、キリスト教界のメインラインは叙勲のように祝したといわれます。
 しかし、「吾等は各々其教義を発揮し皇運を扶翼し益々国民道徳の振興を図らんことを期す」とは、−−これはキリスト教にだけ限定される瑕疵ではありませんが−−、およそ宗教たるものは、この世のものに過ぎぬ「仮象」をどこまでも相対化するというのがその構えであるものですから、三教会同によって市民権を獲得したとしても、それは、国民国家というこの世の原理を「犯さない」限りにおいてという「条件付き」のものであり、そのことを失念し安易に万歳を唱えることには、迎合に見えてもしかたありません。
 「精神の第二維新」の「明」を現在の国家を「より」よく導いていくという批判性であるとすれば、その「暗」は、その国家の内実を問わず無批判に「肯定・貢献」することへの無自覚さとして現れます。三教会同の歓迎はそのひとつの翠点であり、後にそれは、形式としては国家からの強制になりますが、教会合同・神宮遙拝といったものへ結実していく出発にもなっています。「より」よく導いていくという理想を掲げるのであれば、通俗的に「より」愛国者であることを慎重に退けることでもあらねばなりません。
 一般論で形式的に考えれば、例えば政権批判は非国民と同一視されるものでもありませんし、同時に国策の誤りに無自覚に迎合することは愛国でもありません。しかし「精神の第二維新」の気負いは、時として批判の契機を簡単に乗り越えてしまったこと、この「明」よりも「暗」へと流れてしまった歴史的経緯は、近代市民社会において「良き市民」であるとはいったい何か、現在の私たちも留意すべきではないかと思います。
 次に「修養倫理」の「明」を、前近代封建社会から近代市民社会へ移行するなかで個人を自強するための新しい内面倫理と評価することができます。しかし、その「暗」はどこにあるのでしょうか−−。それは、公共空間と内面空間を連続的に捉えないダブルスタンダードとしての受容にあります。様々な関係世界から切断された自己の内面に集中する倫理は、苦悩する個人に安心立命をもたらしました。しかしながら、どのような個人であれ、その内面は内面に収まりきるものではありません。それが形をとることもあれば形をとらないこともあるでしょうが、人間が生きるということは、必ずその人間とその人間の生きる世界は連動しているはずです。しかし、外界を遮断した内面への過度の傾注は、公共生活との接点を喪失した内向き志向として「教会」に「留まる」結果となりました。
 内村鑑三不敬事件以降、キリスト教界の大勢は、社会との関わりよりも教会形成へリソースを注ぐようになります。熊本バンドの小崎弘道が指導する一番町教会は「紳士の教会」と呼ばれますが、これはまさに修養倫理的受容の最たるものであるでしょう。それと対照的なのが吉野作造の所属する本郷教会(「書生の教会」)になりますが、知的傾向への惑溺、即ち、キリスト教の説く愛の精神に薫発されたが故に社会的不正義に具体的に立ち向かっていこうとする熱は、積極的な社会参加を冷眼視する教会への失望となり、最終的にキリスト教を「卒業」してしまう問題を奇しくも生みだしてしまいます。
 日本の文化人とキリスト教の関係を一瞥したとき、キリスト教とある程度の接触はもちながら、福音との決定的な対決・回心を持つことなしに、ある期間を経てキリスト教から離れる文化人や社会活動家、即ち「卒業クリスチャン」を多く輩出してしまうという現象がありますが、文化人や社会活動家の供給元たるホワイトカラー層には、内面への撤退、そしてその対極としての「卒業」といった相反する現象を生んでしまいました(7)。ここに戦前日本キリスト教受容の限界や負荷を見出すことになります。
 吉野作造は「デモクラシーが徹底的に社会の各方面に実現するが為には、人格主義が人類の間に生きた信念として働て居ることを必要とする。……故に基督教の信仰は夫れ自身、社会の各方面に現はれて直にデモクラシーとならざるを得ない訳である」(8)と語ります。
 吉野作造は、内面の問題とその人間の生きる公共世界が決して分断されたものではなく、相即的に連関している、否、互いに刺激与えあうなかで、現在より「まし」な未来を切り開いていくのが道理と説きますが、そこに内面への撤退とは異なる、吉野作造吉野作造らしさを見いだせます。吉野作造キリスト教に入信したことを終生「誇り」にしましたが、自身の生き方は「キリスト教のために」であることを慎重に退けたといいます。聖書の一句一節も引かないのはその証左になりますが、宗教のためにではなく、人間のために−−この点も留意すべきでしょう。
    −−氏家法雄「企画展 オープニング講演:吉野作造キリスト教」、『吉野作造記念館 吉野作造研究』第11号、2015年4月、4−5頁。

        • -




Resize3096