覚え書:「戦後70年 寄稿 伯父さんは戦場へ行った 高橋源一郎『慰霊の旅』」、『朝日新聞』2015年07月22日(水)付。

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戦後70年 伯父さんは戦場へ行った
高橋源一郎
2015年07月24日

 大阪・豊中にあった父の実家に、光が差しこまぬ薄暗い部屋があった。そこには大きな仏壇があり、軍服姿の昭和天皇の写真と、2枚の、軍人らしい青年の肖像写真がかかっていた。それが、わたしが生まれる前に亡くなった、ふたりの伯父さんの写真だと知ったのは、いつ頃だったろうか。

 小学生の頃、岩手から、会ったことのない遠い親戚が訪ねて来て、父と話した。その人は、満州に住み、敗戦時の混乱の中で家族をすべて失(な)くした。日本軍(関東軍)は、侵入したソ連軍の追撃を免れるため、橋を落として逃げた。その結果、多くの民間の日本人が立ち往生し、殺されることになった。満州から逃れることができたのは、情報を知っていた軍人とその家族ばかりで、民間人はほとんどが取り残されたことは、歴史上の事実として知られている。もちろん、小学生のわたしは知らなかったが。覚えていたのは、その人が、「軍隊は最後には国民を裏切るものだ」といったこと。そして「長生きして、この国が滅びるところを見たいね」とも。

 ずっと後になって、でもいまから30年ほど前、父に、そのときのことを訊(たず)ねた。自分の記憶が正しいか確かめたかったのだ。父は、おまえの記憶の通りだ、と答えた。

 「宗彦伯父さんがしゃべったことばのことも、あの親戚の人に、父さんは話していたよね」とわたしは訊ねた。

 少し黙ってから、父は、「そうだった」と答えた。

 今年の5月4日、弟夫婦と、大阪・谷町にある高橋家の菩提(ぼだい)寺を訪ねた。ふたりの伯父の亡くなった場所と日時を調べるためだったが、結局はわからなかった。翌日、弟からメールがあった。

 上の伯父「輝彦」は「昭和21(1946)年3月」に旧ソ連「カザフ共和国」(現カザフスタン)の収容所で「戦病死」しており、下の伯父「宗彦」は「昭和20(1945)年5月4日」にフィリピン「ルソン島」の「バレテ峠」で「戦死」していることがわかった、とのことだった。弟はその記述を、改めて詳しく調べてみた父のノートから見つけ出した。

 わたしは、伯父たちの記録を求めて戸籍を取り寄せ、さらに、彼らが祀(まつ)られて いつの間にか、伯父たちが亡くなった場所を訪ねたいと思うようになっていた。それは、祖母や父や伯母たちが繰り返し「弔いに行きたい」といっていたからかもしれない。長い間、わたしは無関心だったのだが。けれど、親族がほとんど亡くなった頃から、その思いがつのるようになった。とりわけ、わたしと誕生日が同じで、顔つきも性格も似ている、といわれていた下の伯父「宗彦」の亡くなったフィリピン・ルソン島に。

二つの地名

 ルソン島に向かうことが決まってから、フィリピン戦について調べた。

 伯父が戦死したとされる場所と日付は二つあった。靖国の記録や戸籍によれば「昭和20年1月27日 ルソン島・サンマヌエル」、父のノートでは「昭和20年5月4日 ルソン島・バレテ峠」である。いる靖国神社を訪ねた。そこでわかった、ふたりの亡くなった場所と日時は、父のノートのそれとは異なっていた。

 戦争末期、大本営は「千島―本土―比島の線において背水的決戦を行なう」「捷(しょう)号作戦」を発令した。このうち比島(フィリピン)は「捷一号」作戦の舞台となった。レイテ沖での敗北により海軍が壊滅したまま、大本営ルソン島での決戦の道を選んだ。昭和20年1月9日、ルソン島リンガエン湾に米軍が上陸する。「ルソン決戦」の始まりだ。だが、装備で決定的に劣っていた日本軍は後退をつづけた。その「全滅」の最初期の現場がサンマヌエルだった。

 先月末、わたしは、サンマヌエルの小さな川のほとりにいた。緑の畑と背の低い木々が視界に広がっていた。案内してくれた住民は「このあたりでシゲミ旅団が壊滅した」と教えてくれた。「わたしたちはずっとここで暮らしていた。戦争があって、わたしたちは逃げた。そして、戦争が終わって、また戻った。あのころを知っている人間はもういない」

 米軍は、日本軍の抵抗を押しつぶしながら、ルソン島を少しずつ北上していった。最後の大きな戦い、即(すなわ)ち、日本軍の壊滅は5月、バレテ峠一帯で起こった。ここで、日本軍の組織的な戦いは、事実上終わるのである。

 伯父の戦没地が2カ所あるのは、どこで亡くなったかわからないからだろう。サンマヌエルからバレテ峠にかけてのあらゆる場所で「全滅」が繰り返され、部隊がまるごと消滅していった。だから、事実を伝えることができる者などいなかったのだ。

 ルソン戦に参加し生き延びた阿利莫二は『ルソン戦―死の谷』の中でこう書いている。――「捷一号作戦」のために方面軍のとった「持久拘束戦」は、過酷きわまりないものだった。それは、米軍をルソン島に釘づけにし、本土進攻を遅らせることで「捷三号」本土決戦のために時間をかせぎ、あるいは和平交渉を有利に運ばせようというものだった。このため、死守命令を受けた前線部隊は、「玉砕」も禁じられ、食料弾薬の補給もなく、悲惨な戦闘を続けなければならなかったのだ。

 フィリピン戦に参加した兵力は日本政府の推計で約63万人、死者は約50万人。参加した兵士の80%近くが戦死したのである。

 5月が過ぎても、小さな戦闘はつづいた。「時間をかせぐ」ためだけの、意味のない戦闘で、武器も食料もない兵士たちは次々と餓死・病死していった。「人肉食」が行われたのは、主としてこの時期である。その前に亡くなった伯父は、少しだけ幸せだったのだろうか。

 車は山の中のくねった道を通り抜け、少しずつ高度を上げていった。そこは70年前、兵士や若い従軍看護婦たちが飢えて歩き、次々と倒れていった道だったろう。やがて、わたしたちは、一帯を見わたせる高台にたどり着いた。バレテ峠の頂きだ。

 そこには、静かに、十字架をかたどり、あるいは刻んだ二つの慰霊碑と、ことばを刻みこんだ二つの石碑があった。遥(はる)か視界の届く限り、緑の山なみが続いていた。そこがフィリピンだといわれなければ、日本だと思ったかもしれない。目にしみる青い空の下で、慰霊碑は北に向かって、つまり日本に向かって立ち、静かにたたずんでいた。

 わたしは目を閉じ、頭を垂れて、一度も会ったことのない伯父のために、それから帰国することができなかった50万の兵士のために、そして、この戦いで亡くなった、万単位のアメリカ軍兵士と百万人以上ともいわれるフィリピンの人たちのために黙祷(もくとう)をした。黙祷すべき人たちは、他にもいるだろう。だが、あらゆる戦争の死者に黙祷することは不可能なのだ。わたしには、ようやくたどり着いたという思いだけがあった。

 目を閉じている間のことだった。わたしは、異様な感覚に襲われたのである。

 伯父が背後に立ち、黙ってわたしを見つめているような気がしたのだ。恐ろしくはなかった。ただ悲しいだけであった。

 わたしは目を開けた。青と緑に染められた美しい風景が、どこまでも広がっていた。不意に、こんなことを思った。70年前、伯父もまた、どこかこの近くで、この風景を見たのだ。そして、迫り来る確実な死を前にして、自分が存在しないであろう未来、けれども平和に満ちた、その遥か未来の風景を想像したのではなかったろうか。わたしには、それが疑いえない事実であるように思えた。そして、伯父が想像した、平和に満ちた未来とは、いまわたしがいる、この現在のことなのだ。それがどんなに貧しい現在であるにせよ。そのことに気づいた瞬間、そう、ほんとうにその瞬間、わたしは後ろから、伯父に抱きしめられたように思った。そのとき、亡くなった家族たちから託されたわたしの慰霊の旅は終わったのである。

 過去は、わたしたちとは無縁ではなく、単なる思い出の対象なのでもない。「そこ」までたどり着けたなら、わたしたちの現在の意味を教えてくれる場所なのだ。

 「宗彦伯父さんは、こういったんだよね」とわたしはいった。

 「『ぼくは死ぬだろう。この愚かな戦争のために』」

 それは、わたしが唯一知っている、伯父自身のことばだった。30年前、父は黙ってうなずいた。その父ももういないのだけれど。

1941年12月 日本が米・英に宣戦布告。日本軍は米国が統治するフィリピンに上陸
1942年 日本軍がフィリピンを占領
1944年10月 米軍に体当たり攻撃をする日本軍の神風特別攻撃隊が初めて出撃(旧クラーク基地周辺から)
1945年1月 米軍がリンガエン湾からルソン島に上陸、迎え撃つ日本の戦車部隊などに壊滅的打撃
3月 首都マニラを米軍が日本軍から奪還
5月 山岳地帯で米軍を迎え撃った日本軍が壊滅し、バレテ峠が陥落
8月 ソ連(当時)が対日参戦。日本はポツダム宣言を受諾、昭和天皇が国民に降伏を発表
9月 ルソン島山下奉文大将が米軍に投降(北部キアンガン)

旧ソ連の収容所〉
 旧ソ連終戦直前に対日参戦し、旧満州地域などに攻め入った。捕らえた日本兵士らを自国内の各地に送って収容所に抑留し、炭鉱などで労働させた。「シベリア抑留」として知られるが、収容所は中央アジアのカザフ共和国(現カザフスタン)などにもあった。

〈捷号作戦〉
 太平洋戦争後期の1944年に日本軍が立てた作戦。日本に向かって来る米軍を迎え撃つとした。このうちフィリピン方面の作戦は捷1号、本州や九州などは捷3号作戦とされた。

高橋源一郎
 たかはし・げんいちろう 1951年1月1日、広島県生まれ。明治学院大学教授。小説作品に『さよならクリストファー・ロビン』(谷崎潤一郎賞)、『優雅で感傷的な日本野球』(三島由紀夫賞)など。朝日新聞で連載中の「論壇時評」4年分をまとめた朝日新書『ぼくらの民主主義なんだぜ』が発売中。
    −−「戦後70年 寄稿 伯父さんは戦場へ行った 高橋源一郎『慰霊の旅』」、『朝日新聞』2015年07月22日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/ASH786JHYH78ULZU00G.html


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