日記:無謬とは無縁の絶対的な確信に関して

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その人が確信をもって何かを絶対的だと理解し大切だと思うことと、そのことが「無謬」であると理解することはイコールではないんですよね。往々にして「無謬」は強要されるものであって、確信として理解して受容するものではない訳ですから。そのことを最近つくづくと感じている。

地の国と神の国は、対立的な二元論で理解できるものではない。いわば相即関係にあるから、大切な理想をこの世に実現しようと迸る訳ですよね。だから形而上的なものに啓発を受けて現実に自由にエンゲージしている人と触れると、絶対的確信でありつつ無謬を退け、異なる他者を尊重できている。

ただし、その絶対的確信というものが、隷属の恫喝の論理として強要されて受容されたもの、乃至は、その監督官を自認するが如き論理としてすり替えられてしまうと、自己の尊重と他者の尊重が同居でき得ない。なぜなら、全体としての「人間」を尊重する立場ではない訳だから。

絶対的な確信を巡る承認闘争というものは、異なる他者を尊重しつつその瑕疵を撃てるかどうか、そしてあらゆる「人間の無効化」に共闘できるかどうかにかかっているだろう。それを寛容といってよい。無謬論は、仲間に対しても、仲間でないものに対しても、それは終盤「人間に無効化」に落ち着いてしまう

宗教多元主義パターナリズム的受容が、神は多くの顔を持つ、乃至は、触れた場所が違う的な話の一元論に流れることは否定しない。ただ、僕は違うものは違うでええと理解せざるを得ないし、違うからこそフラットに共闘できる訳ですよね。まあ、さすがに鰯の頭もなんちゃらといわれれば、あほかですけど

まあ、そもそも、特にですけど、当該社会からウルトラスペシャルと認定されるがゆえにユニバーサルなものを志向するのが宗教的な叡智。そこに薫発を受けたからこそ、これだけやっとけばOKって「せまくるしいもの」に連動するつうのが錯覚だし、だから自由な挑戦を創造しないといかんわけよ。



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