覚え書:「憲法という嘘に誠を見いだす 鶴見俊輔さん追悼 小熊英二」、『朝日新聞』2015年07月28日(火)付デジタル版。

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憲法という嘘に誠を見いだす 鶴見俊輔さん追悼 小熊英二
2015年7月28日

 小熊英二(歴史社会学者)

 さる7月20日死去した鶴見俊輔氏には、日本の慣用句を寸評した「かるたの話」という文章がある。そこで彼は、「うそから出たまこと」という慣用句に寄せて、こう述べている。

 「(戦後に)新しく、平和憲法という嘘が公布された。これはアメリカに強制されて、日本人が自由意志でつくったように見せかけたもので、まぎれもなく嘘である。発布当時嘘だったと同じく、今も嘘である。しかし、この嘘から誠を出したいという運動を、私たちは支持する」

 鶴見は、自分の代表作は『共同研究 転向』だと述べていた。そこで扱われたのは、戦前に国家主義に転向した左翼知識人と、戦後に占領軍へ追放解除申請を書いた右翼や政治家たちだった。鶴見はこう述べている。「赤尾敏とか、笹川良一とか、みんな申請書を書いているんだよ。だいたいは、私は昔から民主主義者だ、追放解除してほしい、そういうものだよね」(『戦争が遺〈のこ〉したもの』)

 鶴見は「優等生」を嫌った。優等生は、先生が期待する答案を書くのがうまい。先生が変われば、まったく違う答案を書く。教師が正しいと教えた「枠組み」に従う。

 その「枠組み」には、共産主義国家主義など、あらゆる「主義」が該当する。「日の丸を掲げないのは非国民だ」「マルクス主義を支持しないのは反革命だ」といった枠組みを、鶴見は生涯嫌った。彼はその対極として、「作法」や「党派」から自由な、大衆文化や市民運動を好んだ。

 鶴見にとって、枠組みを疑う懐疑と、ベトナム反戦憲法九条擁護の運動は、矛盾していなかった。その理由を、南方戦線での従軍経験もある彼は、こう述べている。

 「私は、戦争中から殺人をさけたいということを第一の目標としてきた。その信念の根拠を自分の中で求めてゆくと、人間には状況の最終的な計算をする能力がないのだから、他の人間を存在としてなくしてしまうだけの十分の根拠をもちえないということだ。殺人に反対するという自分の根拠は、懐疑主義の中にある。……まして戦争という方式で、国家の命令でつれだされて、自分の知らない人を殺すために活動することには強く反対したい」(「すわりこみまで」)

 鶴見は運動においても、新しい「主義」を次々と輸入し、次々と乗り換える作法を嫌った。彼が好んだのは、古なじみの慣用句や通俗的な文化に、意想外の意味を与えていく大衆の想像力だった。彼は西洋思想を掲げる学生運動家を好まなかったが、1960年代の学生たちがヤクザ映画を愛し、製作者の意図をこえた意味を与えていることには共感を示した。

 国という枠組みにこだわらない彼は、日本の外にも、そうした想像力を見いだした。その一つが、征服者が押しつけた聖母像を、メキシコ先住民たちが褐色の肌の女神につくりかえた「グアダルーペの聖母」である。

 そして日本の大衆も、アメリカが押しつけた憲法を、アメリカの意図をこえて受容した。追放解除を経た政治家が首相となり、アメリカとの安保条約を改定しようとしたとき、彼らはその憲法を掲げて抗議した。恐らく鶴見はそこに、「嘘から誠を出したいという運動」をみただろう。

 鶴見の肉体が滅んだ4日後の24日金曜、夜の国会前を埋めた万余の群衆は、「憲法守れ」「民主主義ってなんだ」「誰も殺すな」と叫んでいた。これらの使い古された慣用句に、大衆が新しい意味を与えている場面をみたら、鶴見は喜んだだろう。たとえ彼らが、「鶴見俊輔」などという名前を、一度も聞いたことがなかったとしても。

 ■手紙に感激、進むべき道決まる

 <映画評論家・佐藤忠男さんの話> 新潟で工員をしながら映画評論を書いていた頃、「思想の科学」に「任侠(にんきょう)について」という評論を投稿しました。すると鶴見さんから手紙をいただき、大変感激しました。鶴見さんは学者たちに「この人は分析的な文章を書く人です」と紹介して下さった。私を一人の研究者として見て下さったのだと感じ、その時私の進むべき道が決まりました。鶴見さんは自分と異なる思想の人を理解すべきだとおっしゃっていました。相手の人生や論理を理解したうえで反論すべきだ、と。それは私が文章を書くうえで、忘れられない教えになりました。

 ■20年前から「葬儀は不要」 黒川創さん語る

 鶴見俊輔さんの長男で早稲田大教授(日本近代史)の太郎さん(50)と、親交が深かった作家の黒川創(そう)さん(54)らが24日、京都市で会見し、故人が生前に抱いていた思いを披露した。

 鶴見さんは、今月に京都市であった安全保障関連法案反対デモの呼びかけ人に名を連ねたが、法案への具体的な発言はしていなかったという。ただ、反権力の姿勢を貫いてきた鶴見さんの活動ぶりを振り返り、黒川さんは「(権力の行為を)止める際、思想と行動をどう結びつければよいか、独創性のある抵抗のやり方を考えるべきだという思いだった」と述べた。

 鶴見さんは20年ほど前から葬儀の必要はないとメモに残していたという。黒川さんは「『戦前や戦中、宗教者がしてきたことを俺は忘れていないぞ』という態度を貫きたいのだと思う」と推察。お別れの会などの予定もなく、「弟子を持たなかった鶴見さんにとっては、開いて欲しくないだろう」と説明した。

 (村瀬信也)
    −−「憲法という嘘に誠を見いだす 鶴見俊輔さん追悼 小熊英二」、『朝日新聞』2015年07月28日(火)付デジタル版。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11886343.html





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