覚え書:「特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/4 「知」で民主主義育てよ 評論家・桑原武夫さん」、『毎日新聞』2015年08月13日(木)付夕刊。

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特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/4 「知」で民主主義育てよ 評論家・桑原武夫さん
毎日新聞 2015年08月13日 東京夕刊


 ◇文系は無用か 評論家・桑原武夫さん(1988年死去、享年83)

 先生のお墓は山のてっぺんにあった。フランス文学者にして、ヒマラヤ遠征を率いた登山家である。論語から日本の大衆文化まで専門に籠もらず、学を究めた博覧強記の行動派だった。組織で生きづらい我の強い人物をすくい上げ、知と民の連携を唱えた元京大教授、桑原武夫さんは、京都を見下ろす山に眠る。

 法然が開いた金戒(こんかい)光明寺京都市左京区)に建つ三重の塔。その真裏、生け垣に囲まれた墓石に「桑原先生」とあった。「やはり先生か」と得心すると、隣の小ぶりの石に「桑原武夫」とある。よく見ると「先生」は東洋史学を開いた父、桑原隲蔵(じつぞう)の墓。それぞれ夫人の名が彫られた2組の石が並んでいた。

 「孔子様みたいな人ですわ。若い才能を見つけては面白がり、無私に育てた人ですね」

 寺に近い若王子町に、哲学者の梅原猛さん(90)を訪ねると、師匠をこう評した。

 英仏古典から中国語、食べ物、山登りまで。幅広い知識は、評論家、加藤周一に言わせれば「どこをとっても一夜漬けでない経験と知識の厚みが、古い日本家屋の拭きこんだ床の艶のごとし」。単に外国をまねたり、一辺倒になったりしない人だったと加藤は評している。

 分厚い知識と、人に会うために骨を惜しまない好奇心で、立ち上る才を見いだした。専門を超えて人が集まる研究の場をあえてつくり、埋もれた鬼才にチャンスを与えた。

 弟子の顔ぶれは多彩だ。フランス文学の多田道太郎杉本秀太郎。哲学では上山春平に鶴見俊輔。小説家の高橋和巳小松左京生態学梅棹忠夫。「知のネットワーク」を築いた。

 梅原さんは語る。「他に、志賀直哉三好達治、ずっと年下だけど司馬遼太郎とも親しく、桑原さんはそういう人脈の中心にいました。僕は『稀代(きたい)の猛獣使い』と呼びましたが、才能に敏感で、非常に個性的な人間、つまり猛獣たちを実にうまく使う。人たらしみたいな面もあるけど、個性が活躍するのが好きだった。自分を消して、人を売り出すのは趣味みたいなものでした」

 例えば日本文学から民族感情をあぶり出そうとした共著「文学理論の研究」(1967年)で桑原さんは、連名で論文を一つ寄せただけで、後は18人の弟子たちに好きに書かせている。教え子の仕事を自分の手柄にしたり、編集者やライターに書かせた物を著名なコメンテーターが自分の名で出版したりする昨今とはまったく逆なのだ。

 文体も行動も極めて明晰(めいせき)で「常識人」を自任する桑原さんは、梅原さんに言わせれば「内面に、何か暗い情念を宿している異質な人々にひかれた。また、そういう人でなければ創造的な仕事はできないと思っていた」。桑原さんが愛したルソーは婚外子を5人も捨てた罪の意識が執筆の原動力になった。

 桑原さんの弟子の性格を梅原さんが評する。「大事にした同輩、湯川秀樹さんは兄弟で一番できなかった劣等感から、大きなことをやらないと生きていけないと量子力学に進んだ、と私に言ってました。桑原さんが引き上げた今西錦司さんも大学を出るのに何年もかかり、自分で『ダーウィンか、今西か』なんて言っていたところに暗い情念があった。鶴見さんの根には特権階級に生まれたコンプレックス。毎晩、ウイスキー1本を空けていた梅棹さん。僕ですか? 僕は出生については、いささか暗いところを持っています。桑原さんはそういう暗さを洞察し、創造性を育てたんです」

 フランス文学に没頭した若い頃は、何かと日本文化を低く見る論考もあったが、次第に日本の民衆の優秀さにひかれ、期待を抱くようになる。

 「私はこどものとき、日本人は品行が悪くて、芸者とか娼妓(しょうぎ)とか、はずかしいものがある、欧州ではみな品行がよいと教えられた。これほどまちがったことはない」「日本はデモクラシーが政治ではうまくいっていないが、文化や生活面では欧州以上にデモクラティック」(71年講演、一部略、以下同じ)

 「膨大な発行部数をもつ多くの週刊誌を日本文化論としてとらえた研究はまだ存在しない。しかし週刊誌を無視して現代日本人の博識と軽薄さとを説明することはできない」「日本の大学への進学率がきわめて高いのは経済成長もあるが、万民平等を確信する大衆社会に独特の現象といえる」(79年の講演)

 国を良くしようと、組織に足を引っ張られがちな才ある個性が民衆とうまく連携すれば、日本は類を見ない民主社会になるという直感があった。

 <私たちは、成り上がり社会を恥じず、モデルを外に求めず、自分たちの考えで改めていく以外に道はない。工業化が民主化に先行した過去も恥じることはない。エリートと庶民の結ばれた比較的品質のよい大衆社会(日本)の中で、民主主義的文化を育てるのに成功すれば世界で新しいモデルになる>(「日本文化雑感」62年)

 エリートとは、官僚や政治家ではなく、彼の弟子たちのような「異質な才」を指す。知識人はお高くとまらず、民に「人はいかに生きるべきか」を説き、知と民が自ら国を導け−−。桑原さんの数々の論考から感じるのはそんなメッセージだ。

 71年の講演ではこうも主張している。「日本には昔から、信長などを除くと、独裁者がほとんど出ていない。そんなものは必要ないので、若干の指導者があれば、すぐまとまってしまう」「アメリカではインテリと大衆が断絶している。日本社会では、その断絶がない。もちろん日本大衆社会には欠点もあり、浅薄なところもいろいろあります。しかし、この現実を無視した欧州直輸入の高級理論だけでは、ものごとは改まらない」

 そして、知と民をつなぐのは、文学、芸術だと指摘した。<文学は人間の世界を大きく、深くし、その実質を増す。民衆の思うところに的確な表現を与え、民衆を新しくする力を持っている>(「文学入門」50年)

 いま文部科学省は国立大に、人文社会科学系などの学部の廃止や転換を求めているが、桑原さんならどう反応しただろう。

 「反対しますよ」と梅原さんは即答する。「安倍(晋三)首相は、自分を批判する人を減らせるからいいけど。英国のシェークスピア、ドイツのゲーテは国の誇りで、文化なくして国家はない。それは昔も今も同じ。安倍さんと同じ長州人の山県有朋森鴎外の心の友で、彼なしに作家鴎外はなかった。そういうことを真剣に考えてほしい。桑原さんが求めた創造性の根に芸術、文学がある。それがなければ、小器用な人間を育てるだけです」【藤原章生】=つづく

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 ■人物略歴

 ◇くわばら・たけお

 1904年、福井県生まれ。5歳より京都で育つ。京都帝大文学部卒。東北帝大助教授を経て48年、京大教授。登山家として25年に北岳積雪期初登頂、58年には京大隊隊長としてカラコルムチョゴリザ峰初登頂を導く。87年に文化勲章受章。「ルソー研究」「第二芸術」「人間素描」「論語」「中国とつきあう法」など著書の他、スタンダールなど翻訳も多数。
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