覚え書:「今週の本棚:松原隆一郎・評 『資本主義という病』=奥村宏・著」、『毎日新聞』2015年08月16日(日)付。

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今週の本棚:松原隆一郎・評 『資本主義という病』=奥村宏・著
毎日新聞 2015年08月16日 東京朝刊
 
 (東洋経済新報社・1620円)

 ◇不祥事の責任取らぬ「会社本位主義」

 鹿児島県の川内(せんだい)原発一号機が再稼働したという報とともに本書を読み、異様な読後感を持った。

 評者はいわゆる反原発論者ではなく、福島第一の事故処理が進んでいないことをもって再稼働に絶対反対というのでもない。しかし東京電力もしくはその幹部に事故の責任を取らせることが確定していない現時点で再稼働させてしまうのでは、「次に事故を起こしても責任は問われない」と電力会社各社にお墨付きを与えたも同然になる。どんなに規制を厳しくしようが、責任を問われないならヒューマン・エラーは避けられまい。

 心理的な安全装置を外すような決断がなされるのは、日本という国が「会社には責任を取らせない」という一種の宗教に囚(とら)われているからに違いない。

 「株式会社とは何か」を一貫して追究してきた会社論研究者・奥村宏氏は、本書で珍しくみずからの思想遍歴にも触れつつ、これまでの業績を丹念に解題している。そこで結論づけられているのが、戦前の「国家主義」に代えて日本人が信奉するようになった「会社本位主義」においては、「不祥事には責任を取らない」のが常態になるということだ。原発再稼働が粛々と進んだ真の背景が垣間見えたかのようで、背筋が寒くなる。

 株式会社研究においては、株式会社の始まりは取締役および株主が無限責任制から有限責任制に移行した時点とされている。有限責任だと、会社が債務不履行となって倒産しても上限で出資した分、つまり株価がゼロになるまでが株主の責任になる。対照的に合名・合資会社のように無限責任だと債務まで責任を負わなければならないから、株主は株価や配当だけではなく会社関係者のすべての行動に注意しなければならなくなる。しかし有限責任化がきっかけとなって株主は出資しやすくなり会社は巨額の資本を集められるようになった。

 もちろん有限責任制には18−19世紀の先進国イギリスでも賛否両論が渦巻いて、A・スミスは株主が配当にしか関心を持たなくなると警告した。肯定したのはJ・S・ミルで、彼は債権者に対し、株主が払い込んだ資本金を担保と考え、それに見合った資産を差し押さえよ(資本充実の原則)、それとともに資産状態を誰にも判(わか)るように公開せよ(財務内容のディスクロージャー)と説いた。

 とすると、自己資本比率が低かったり過剰に債務がある(オーバー・ボロウイング)ことを特徴とした戦後日本の株式会社システムは、ミルが辛うじて支持した有限責任制の必要条件すら満たしていなかった。そのうえ日本の刑法には、「法人には犯罪能力がない」という論調がある。原発事故が会社の犯罪とはみなされないのも当然だ。

 奥村氏は「新聞経済学者」を自称する。新聞や雑誌記事を読んで研究を進めるやり方で、マルクスと同じだという。学界では「ジャーナリズム」は侮蔑語だが、新聞記者時代の同僚・司馬遼太郎氏を思わせるリアリティには比類がない。

 ごく私的な感想をひとつ。評者の祖父は製鉄会社を営んでいたが、拡大路線が祟(たた)って系列である川崎製鉄に吸収された。現在の川重兵庫工場である。私はなぜ祖父が憑(つ)かれたように拡大主義を取ったのか不思議だったが、謎が解けた。そもそも祖父に製鉄を勧めたのは尊敬する囲碁友達の西山弥太郎だった。本書で西山は資本金5億円の川鉄で163億円を借りて巨大な千葉工場を作り、大成功を収めて戦後日本のオーバー・ボロウイング路線を確定した人とある。なるほど破綻して仕方なかった会社かと、しみじみ感じた次第。
    −−「今週の本棚:松原隆一郎・評 『資本主義という病』=奥村宏・著」、『毎日新聞』2015年08月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150816ddm015070094000c.html


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