覚え書:「特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 「平和」の名の下に 憲法学者・樋口陽一さん」、『毎日新聞』2015年09月17日(木)付夕刊。

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特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 「平和」の名の下に 憲法学者樋口陽一さん
毎日新聞 2015年09月17日 東京夕刊

(写真キャプション)憲法学者樋口陽一さん=徳野仁子撮影

 ◇社会の骨組み壊される

 ある女子大学生の叫びが忘れられない。6月19日、首相官邸前で行われた安全保障関連法案への抗議集会でのことだ。

 「私たちは特別なことを要求しているんじゃない。ただ自由に生きたいだけ。これ以上、平和な世の中を壊さないで」

 「なんと切実な思いだろう」。集会に参加していた樋口陽一さんの胸に突き刺さった。「安倍晋三政権は社会の骨組みそのものを壊そうとしている。若者たちはそれを鋭く見抜いている」と。

 「社会の骨組み」の一つが憲法だ。政権は、集団的自衛権の行使を可能にするため、憲法9条の解釈をねじ曲げ、過去の内閣法制局内や国会での議論をひっくり返し、さらには「必要な自衛の措置」に言及した1959年の砂川事件最高裁判決を都合良く解釈した。「これらは立憲主義、裁判所の独立、法の支配などに抵触する。安倍政権がしていることは、人類が長年にわたって積み上げてきた『知の遺産』への侮辱です」

 「闘う憲法学者」の看板的存在だが、長年、新聞やテレビで時事問題についてコメントするのは極力控えてきた。2012年暮れの総選挙で、安倍首相が再登板するまでは−−。

 「大学はいい意味で『象牙の塔』であるべきだからです」。象牙の塔とは、世間の動きから遠ざかったところで研究に励む状態を皮肉る言葉だ。「責任ある言論を発するために、時代に流されない考え方、理論を確立するのが学者の本分だと考えていましたから」。政府の審議会にも原則、加わらなかった。

 だが、再び権力の座に就いた安倍首相は、憲法改正規定である96条のハードルを下げると言い始めた。「これは放っておけない」。若手学者らに推され「96条の会」代表に就いた。政権の政治手法に批判的な学者グループ「立憲デモクラシーの会」の共同代表を務め、元内閣法制局長官や元外交官らと「国民安保法制懇」も設立。節目には政権批判の声明を出し、憲法集会に積極的に参加する。「学者としての方針転換。私はきちんと『憲法改正』したんですよ」と笑う。

 自宅の部屋には、作家の井上ひさしさん、俳優の菅原文太さんと樋口さんが納まった写真が飾られている。共に鬼籍に入ってしまったが、井上さんは仙台一高の同級生、菅原さんは1級上の先輩だった。

 井上さんは改憲を阻止する「九条の会」の呼びかけ人の一人で、時折、樋口さんと憲法集会に参加し、共著も出版した。

 菅原さんが昨年1月に東京都知事選で細川護熙元首相の応援演説をしたときは、樋口さんがそばで見守った。「菅原さんがよく言っていました。『政治の最も大事な役割は、絶対に戦争をしないことだ』と」

 安保法案の肝は、言うまでもなく集団的自衛権の「限定行使」だ。つまり武力行使、戦争に発展する可能性がある。その違憲性について、こう語る。

 「憲法の前文にも9条にも『自衛権』という言葉は出てこない。しかし憲法に書かれていなくても、国家である以上、自分がやられたらやり返す権限、個別的自衛権はあるというコンセンサスを政府は培ってきたんです。それには国民が納得するだけの説得力がありました。ところが、集団的自衛権の本質は他国への攻撃を自国への攻撃とみなして武力行使する『他衛』です。憲法に個別的自衛権の文言さえないのに、集団的自衛権にまで概念を広げられないのは、論理的に当然です」

 安倍首相らが「我が国の安全保障上、必要だ」としていることには「(集団的自衛権行使の具体例として示された)中東・ホルムズ海峡の機雷除去は、イランの安全保障担当者が『開かれた安全な海域とすべく最善を尽くしている』と発言して海峡封鎖の可能性を否定しており、現実味が乏しいのは明らか。結局、法案の必要性について国民が十分に納得できる説明はなされなかった」と言い切る。

 そして話を、幕末の志士から初代首相に上り詰めた伊藤博文へと転じた。伊藤は、大日本帝国憲法制定の議論の際、立憲主義の本質をこう述べている。

 「そもそも憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」(枢密院会議議事録)

 「国家権力である天皇の権限も縛る、という立憲主義の基本を伊藤は理解していた。立憲主義への理解という点では、明治時代の政治家の方が深かったと思います」。痛烈な批判だ。

 戦後日本は新憲法の下、国民主権を実現した。「民主主義に関する議論が盛んになる一方、立憲主義はあまりに当然すぎて意識されなくなりました」。最近は「数は力」「多数決がルール」などの極端な民主主義論がまかり通るようになってきた。安倍首相も国会で多数を占める与党を背景に「決めるときには決める。それが民主主義の王道」と言う。民意は6割以上が法案反対にもかかわらず、だ。

 立憲主義や民主主義を踏みにじるかのような首相の軽い言説を「不真面目だ」と断じる。そして、デモで何度か耳にしたフレーズを口にした。

 「国民の心情は一言、『なめんなよ』ですよ」

 戦争を知る世代だ。米国に宣戦布告した41年12月8日は、恐怖に身が震えた記憶が残っている。家にあった絵本には米国の高層ビル街や民間航空機の姿が描かれていた。豊かさにおいて日本とは雲泥の差があることが、子供心にも分かった。「こんな国と戦争しても、勝てっこないと思っていました」

 45年7月、米軍による「仙台空襲」で約1400人の命が奪われた。戦火は逃れたが、樋口少年は何台ものトラックが遺体を運ぶむごい光景を目にした。「戦争ほど個人の尊厳や自由を奪うものはない」。そう直感した。

 それから70年。冒頭の女子大生のように、若者が尊厳や自由を奪うなと訴えている。自由が奪われた先には戦争がある、と見通しているかのようだ。

 <すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする>

 樋口さんは、デモや集会に参加する若者を「この憲法13条がうたう個人の尊厳が具現化された姿だ」とたたえる。「彼らは誰に指示されたわけでもなく、今まで当たり前だと思っていたものがなくなる危機を感じ、自分自身の判断で行動している。まさに個人の尊厳のありようが身についているのです」

 与野党の勢力図だけを見れば、安保法案は成立してしまうかもしれない。だが、老憲法学者の表情に陰りはない。

 「あの若者たちの姿は、安倍首相がどんなに壊そうと思っても壊せないものですよ」【江畑佳明】

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 ■人物略歴

 ◇ひぐち・よういち

 1934年、仙台市生まれ。東京大、東北大名誉教授。上智大、早稲田大でも教壇に立った。「『日本国憲法』を読み直す」(井上ひさし氏との共著)、「比較のなかの日本国憲法」「自由と国家」「憲法と国家」など著書多数。
    −−覚え書:「特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 「平和」の名の下に 憲法学者樋口陽一さん」、『毎日新聞』2015年09月17日(木)付夕刊。

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