覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』=滝口悠生・著」、『毎日新聞』2015年09月13日(日)付。

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今週の本棚:三浦雅士・評 『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』=滝口悠生・著
毎日新聞 2015年09月13日 東京朝刊


 (新潮社・1512円)

 ◇記憶と時間の謎に迫る小説

 ジミ・ヘンドリクス。伝説の天才ロック・ギタリスト、1970年9月18日、27歳で亡くなったが、いまも根強いファンがいる。66年、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスをロンドンで結成、アメリカに帰って爆発的な人気を得た。エレキ・ギターの音の領域を驚異的に拡大し、多くの追随者を生んだ。日本での通称は「ジミヘン」。

 だが、滝口悠生(ゆうしょう)のこの小説はそのジミヘンとは何の関係もない。間違って買い求めたりしないように。ただ、ジミヘンのファンがこの小説を面白いと思う確率は高い。たとえばユーチューブでジミヘンを見て、ああ凄(すご)いと思いながら、他人の過去−−その時は現在だったわけだ−−を追体験している自分の現在とは何かを考えてしまうような人、ユーチューブがもしも人類の記憶の蓄積であるとすればその蓄積にいつでも接することができるというその人類の時間の変容に一瞬ボーッとしてしまうような人ならば、確実に惹(ひ)かれると思う。

 物語は、19歳の大学生である語り手が原付バイクで東北一周に出かけた2日目、居眠り運転で道から飛び出してしまい、田んぼに放り出されたその瞬間から始まる。旅行は2001年9月末から2週間ほどかけて行われた。バイク事故である。九死に一生を得るほどの体験だが、「二〇〇一年、もう十四年も前のことなのだ」という説明がすぐに続く。奇跡的にかすり傷程度で済んだのである。

 「それにつけても思い返せば思い返すほど、あまりに捉えどころのなく散漫な風景を、こうしてひと連なりの言葉と言おうか、(略)関心の糸みたいなものが、ぐねぐねと曲がりながら、どれだけ嘘(うそ)やでたらめが混じろうとも、ひとつの軌道を辿(たど)れるのだから、人間の想像力というのは、たいしたものと言うか、いい加減なものと言うか、しかしそのいい加減さの極まったところに、たとえば俳句みたいな、無限の奥行きが潜んでいるのではないか」

 のっけから小説の主題と方法を告白しているようなものだが、理屈っぽい小説ではない。むしろ、放り出された目に映る光景の描写、その後に出会った人々の描写など、あえていえば志賀直哉を思わせるほど的確で、つまり情景の中心よりも周辺のほうが克明に描かれていて、退屈させない。

 軸になるのは東北一周の旅なのだが、その間に、高校時代の美術教師のこと、大学時代のその後のこと、ジミヘンに惹かれた話などが混じり込む。2015年の現在の感懐、たとえば「あの時数年後、十年後にこの夜のことを思い出すかもしれないと思ったりした私は、いったい何を思い出すつもりだったのか」といったことが語られるが、結末は再び冒頭の場面に戻る。

 とはいえおよそ結末ふうではない。人気(ひとけ)ない国道を歩きはじめ、脇道にそれ、田んぼのなかの墓地に入る。雨が降る。犬を連れた背の高い男がやってきて線香を置き、ウクレレを弾く。男は弾くのを諦め、焚(た)き火をはじめようとする。「雨が降っているというのにちょっとおかしいのではないか」というのが最後の一行。開いたままで終わっている。

 晩年のアインシュタインは哲学者のカルナップに現在というものが分からないと言っていた。吉田健一が晩年の『時間』『変化』で取り上げたのも同じ問題だ。吉田の小説はその応用と言える。過去も未来も現在の現象としてしか人間には把握できない。ジミヘンがエクスペリエンスすなわち体験という語を用いた理由もそこにあると思える。

 時間の謎に迫る小説である。
    −−「今週の本棚:三浦雅士・評 『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』=滝口悠生・著」、『毎日新聞』2015年09月13日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150913ddm015070028000c.html


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滝口 悠生
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