日記:お花畑とポエムに居直りを決め込む権威そのものを相対化し、人間を自律させる、人間をエンパワメントさせる知性の連帯
学者の会&SEALDs「岐路に立つ日本」集会@法政大に来ています。大講堂に立ち見の熱気で、こういう雰囲気は自分史上イラク戦争以来。学者学生に広く市民が、言葉を、情報を、分析を求め、意志を確認しあいたくて集まった、そんな熱気を感じる。 pic.twitter.com/Lq222kaG5G
— Akai OHI (@AkaiOHI) 2015, 10月 25
学者の会&SEALDs「日本の岐路」集会で改めて、1960年安保型の、活字で世論大衆を牽引するタイプの「知識人」という枠組の終焉を感じた。知をめぐる媒介の変化、大学教員の実状、高等教育の基盤の変化など。運動に対する学者の責任(そんなものがあるとして)は新たなスタイルが必要だろう。
— Akai OHI (@AkaiOHI) 2015, 10月 25
SEALDsはかなり戦略的に学問を尊重していて、それはSEALDs「選書プロジェクト」に見事に現れている。しかしそれ以上に重要なのは、奥田君が長谷部憲法論の「難しさ」を茶化したり、小熊さんの著作の「長さ」に一殺入れたりと、知性の偶像化を拒否する姿勢もしっかり確保している点だろう。
— Akai OHI (@AkaiOHI) 2015, 10月 25
例えばSEALDs関西の大澤さんが「ファッションにしか興味なかった学生が政治について語り出した」のと同列に、「本とパソコンの前を動かなかった学者が路上に出てきて雨に打たれた」ことに言及すると、会場からどっと笑いが起こったが、こういう関係を表現する語彙は、60年安保にはないだろう。
— Akai OHI (@AkaiOHI) 2015, 10月 25
またビデオメッセを寄せた高橋源一郎が、「娘の冬物子供服を洗濯しなければならないので今日は欠席する。物干し台の前で集会の成功をお祈りする」とやけに強調していたが、あれは個人の私的充足や家族的安逸に犠牲を強いてきた、「悪しき左派運動主義」に対する牽制ともとれ、妙に印象的でもあった。
— Akai OHI (@AkaiOHI) 2015, 10月 25
大井さんの議論に導かれながら、6月に安全保障関連法に反対する学者の会に賛同の署名をし、廃案に向けて100大学共同行動、SEALDsと学者の会の抗議活動や総掛かり行動に参加した印象を少々綴っておきます。
アベ政権の立憲主義を否定し、人間の幸福追求する毀損することへの今回の反対の声はまさに従来の抗議とは全く違う性質を帯びていると思います。
学生の危惧は、学者たちを路上へ引っ張りだし、市民と学生、そして学者が水平に対等に向かい合い、抗議を続けています。これは従来の日本社会にはあり得なかった現状であり、特に対等と相互尊重の人間共同の在り方は、とかくヒエラルキーと上下関係が強調され、一切がそれで決まってしまう風通しの悪い日本社会の権威主義への批判とオルタナティブの提示としても機能していると思います。
そして対等と相互尊重の人間共同のあり方の中で、関わる全ての人間が、知性を尊重しているということが特徴的ではないかと思います。イデオロギーや運動論、もしくは権威によって牽引されるのではなく、絶えず知性を鍛え直しながら試行錯誤を繰り返している。間違っていることがわかった場合は反省したうえで、再出発していく・・・これも従来の運動には見られなかった特色といってよいでしょう。
特に現下で猛威をふるう日本型反知性主義に対抗するカウンターとしても従前として機能しているのではあるまいかと思います。本場アメリカにおける反知性主義が、社会構造的に分断された知の専有と傲慢さに対する、野の智恵、野の豊かな常識のもつ良識が歪んだ知性を批判しました。日本においての反知性主義とは「知らないで何が悪い」という居直りですが、それが路上から、そして象牙の塔を超脱するアカデミズムの双方から「撃たれる」という現象は前代未聞といってよいでしょう。お花畑とポエムに居直りを決め込む権威そのものを相対化し、人間を自律させる、人間をエンパワメントさせる知性が今立ち上がっているのだと思います。
それぞれが学生、市民、学者としての挟持を守り、生活領分を大切にしながら、相互尊重をしっかり保持しながら連帯している姿は、グラムシのいう「有機的知識人」の連帯が今、日本に立ち上がっているんではないかと想起させられてしまいます。
逆風はいやまして強いですが、この「いかがなものか」という良識豊かな反抗の灯火は費やしてはならないですね。